禁忌の代打ち
十一月上旬、ボートレース宮島。
ピットの最外周から、厳島神社の巨大な赤い大鳥居が夕闇の瀬戸内に姿を現していた。満潮を迎えた鳥居の根元は黒い海水に没し、その姿は幻想的というよりも、修羅の境界線のように俺の目に映った。来春のプレミアムG1「住之江ヤングダービー」を前に、上田校長から下されたのは非情な一言だった。
「その歪んだ潜水旋回のまま聖地へ出れば、第一マークで死ぬ。プロの物量を、その身に刻んでこい」。
対峙したのは、一コースに絶対の牙城を構える堀尾大輔。五万五千のマブイを機体の「剛性」のみに注ぎ込む、職人肌のベテランA級レーサーだ。
「からくりの本質を忘れた奇策に溺れる奴は、本物の修羅が放つ剛性の前に、脆くも崩れ去るのみよ」
展示航走ですれ違いざま、叩きつけられた地鳴りのような声。
レースは一瞬だった。第二マーク、最内の隙間へ機首を滑り込ませようとした瞬間、堀尾がハイドロバルブを強烈に逆噴射させた。高さ数メートルの硬化構造の水絶壁が突如として出現する。
ドガァァァァァンッ!!
時速百キロの激突。三十九号機のカウルが悲鳴を上げ、視界が真っ白に染まった。転覆しなかったのは、本当にそれだけが奇跡だった。三着。完全なる敗北だ。
ピットへ戻ると、堀尾が無言で俺の前を通り過ぎた。その背中は一切の哀れみを持たなかった。俺は三十九号機の右舷に走る生々しい亀裂を見つめ、水の壁に跳ね返された感触が掌の奥に残っているのを感じた。波を潜るだけでは足りない。波そのものを消滅させなければ、あの本質には届かない。
宮島のレースに出走していたゆえが、泥と油にまみれた俺の防護服を拳で叩きつけた。
「無茶しんさんなよ……! でも、あんたの狂気で聖地の天才どもを残らずブチ壊してきんさい!」
「ああ、全員まとめて水底に沈めてやるよ」
「誠。機体のフレームのダメージは今夜中に修復可能だ。……そして、これを見ろ」
瓜生が血相を変えて突き出してきたタブレットの映像が、俺の肺の空気を一瞬で奪った。
画面に映し出されていたのは、先刻まで下関で行われていたレースのバックヤード。山口支部の格納庫で電子回路をハッキングされ、狂ったように火花を散らしながら真っ赤に炎上する平野一貴さんの愛機の姿だった。
「――平野、さん……!?」
燃える機体を見た瞬間、俺の脳裏に、三年前の琵琶湖の決勝が割り込んできた。
あの日。俺のアトモスが暴走し、相手の機体を正面から弾いた。時速百二十キロ。相手は転覆し、水底に沈んだ。公式記録は「接触事故」として処理され、俺に過失はないとされた。だがあいつは二度とレースに戻ってこなかった。機体に激突した際の頸椎損傷で、霊子回路が焼き切れたのだ。俺のアトモスが、あいつのすべてを奪った。それが、「あの日」だ。
三年間、その重さを抱えて走ってきた。あいつに胸を張れる水面を走るためだけに。
そして今、俺の師が、同じように炎に飲まれようとしている。陰謀は、既に始まっていたのだ。第4話で見た望遠レンズの男の影。あの夜から、誰かが三十九号機を狙っていた。
「平野さんは、煙の巻く格納庫の床で意識を失う直前、大会執行部へ向けて『特例リザーバー枠』を行使すると告げやがった。平野さんが己の命と引き換えに指名した代替レーサーの名前は――速水誠。お前だ、誠」
瓜生の声が、怒りと興奮で激しく震えていた。B2のルーキーが、最高峰のG1へ。競艇の歴史の中で百年もの間使われることのなかった禁忌の条文――【霊子機体検証および、襲撃による特別代打ち条文】を、平野さんが己の血の滲む指先で、無理やり適用させたことを意味していた。
俺は一拍、黙った。
平野さんは、三十九号機の血統を右腕ごと飲み込まれた男だ。俺と同じ機体の呪いを背負い、同じ水面を走ってきた人だ。その人が今、炎の中で俺の名前を呼んでいる。
「……瓜生。俺の走りは、ただの奇策に過ぎなかったのかな」
「奇策と、本当の本質との決定的な違いが何か、分かるか」
瓜生は絶縁スパナを止め、眼鏡の奥の瞳を青い炎で燃やした。
「奇策なら、一度へし折られたら二度と変わらない。だがお前の潜り方は、敗北を糧にミリ単位で形を変え続けている。暗闇の先にある本当の本質を、血を吐きながら探し続けているからだ。今日の敗北で、俺たちはその最高のデータを手に入れた」
瓜生の言葉が、俺の胸の奥の、一番熱い場所に火をつけた。
三年前に沈めたあいつへの借りは、奇策じゃ返せない。平野さんが命を懸けて開けた扉は、本物の本質でしか通れない。次の住之江では、波を潜るのをやめる。俺自身が、世界のすべての重力と出力を完全に無効化して無へと還す、真なるマブイゼロそのものへと変貌する。平野さんを襲った闇ごと、内側から喰い破ってやる。
手続きを終えた菜奈が、スーを小脇に抱え、俺たちの前に歩み寄ってきた。
「住之江への緊急移動の手配は、うちが全部終わっちゅうきね。平野さんの魂を背負って、最下級のB2がG1の猛者どもを引っかき回す前代未聞の大バグ劇――うちが最後まで、お前たちの命ごと管理して、特等席で見届けてあげるきね!」
俺は瓜生から手渡された絶縁スパナを壊れるほどの力で握り締め、三十九号機のカウルを激しく叩いた。ガンッ、と鋭い金属音が夜のピットに響き渡る。
宮島の敗北の味がまだ口の中にある。だが、その悔しさも、引き裂かれた身体の痛みも、平野さんから届いた炎の重みも、すべてを胸に抱きかかえて、俺たちはもう一度、あの聖地へ殴り込みをかける。
「行くぞ、瓜生、菜奈。俺たちの航路を邪魔する奴は、神様だろうが叩き潰す」
持たざる三人の、本当の頂点への航路だ。




