データ・オフ
翌春、大阪・住之江競艇場。
住之江の夜風が、ピットの静寂を切り裂く。プレミアムG1「ヤングダービー」最終優勝戦。今夜の聖地はいつもと違った。カクテル光線がギラギラと水面を照らしているのに、ピット全体が奇妙なほど静かだ。十万超えの修羅たちが放つマブイの火花が、互いを飲み込もうとして拮抗し、完璧な均衡の中で凝固している。決戦の前だけが持つ、息の詰まる静けさだった。
無人の格納庫。俺――速水誠は、三十九号機のカウルに刻まれた生々しい溶接痕に掌を押し当てた。指先から伝わる熱。下関、丸亀、児島、宮島での敗北の味を舐め尽くした機体が、死の淵で掴み取った執念の温度だ。チルトの設定は「マイナス〇・五」。水面との接地面積を最大化する負の骨格。
格納庫の入り口に足音がした。
實森ゆえが、オイルで汚れた手でプロペラバッグを差し出した。目が赤かった。
「昨夜、クラック全部溶接しといたき。これじゃ住之江の消波壁に激突してへし折られて死ぬって、菜奈に言ったら黙って道具貸してくれた」
俺は受け取りながら、こいつの顔をまっすぐ見た。明日の水面で殺し合う相手の目だ。
「ありがとな、ゆえ」
「言わんでいい。水面でブチ抜かれたくなかっただけやき」
ゆえは背を向けて歩き出した。
「でも、あんたの狂気で天才どもを残らずブチ壊してきんさい」
菜奈がスーを抱きかかえながら、バッグを肩に掛け直した。目が小刻みに震えていた。
「誠。生きて帰ってきて」
「当たり前だ。あの不眠不休の天才を差し置いて、俺一人で死んでたまるかよ」
血にまみれた唇を歪めて笑って返した。
脳裏に、エントリー表が冷徹に焼きついている。一コース、最内。世界のすべてを吸い込む絶対女王、鎌倉明奈。コアマブイ七万の真空の支配者。今夜の鎌倉はピットでも一切動かない。一ミリも揺れない。水面に入る前から、既に世界を支配している。
二コースに瓜生俊樹。三コースに守屋あおい。四コースに實森ゆえ。
大宮機艇教習所の掃き溜めで、雑草のように生き抜いた俺たちが、今、世界の頂点を完全に囲んでいるのだ。
「最悪の準備不足だ。最下級の分際で、世界の強者どもを笑わせにいくぞ」
隣に立つ瓜生が、絶縁スパナを握りしめ、獰猛に唇を歪めた。眼鏡の奥の瞳からは、かつての計算ずくの冷徹な光が消えていた。代わりにあるのは、水の声を聴いた男の、静かで深い闘志だ。
「知ってるよ。……お前は行くんだろ、誠」
「行くに決まってるだろ、俊樹」
俺はコックピットの戦術データモニターのメインスイッチを、叩き割る勢いでオフにした。画面が落ちる。データも、解析も、流体予測も、すべて闇に捨てた。三年前に水底へ沈めたあいつへの借りを返すのに、数式はいらない。今の速水誠は、一千の極小のマブイを抱えただけの、丸裸の凡人だ。それでいい。
カチリ。
瓜生が自身の電算スイッチを遮断する音が、住之江のピットに銃声のように重く響き渡った。
「誠。今日のレース、俺の計算に頼るな。数式に逃げれば、お前は本当の真空ではなく、安全圏という幻影と戦うことになる。……お前の一千のすべてを、完全なる『無』へ流し込んでこい。俺の組み立ててきたすべての計算式の外側で、お前を最内から差し切ってやる」
「最高だ、相棒。……待ってるぞ」
三十九号機の心臓部が、静かに、しかし確かに脈打った。第1話の大宮で、冷え切ったカウルにはじめて触れた夜と同じ脈動だ。あの時俺は「待たせたな」と言った。今夜は何も言わなくていい。俺たちはもう、同じ呼吸をしている。
一コースの最内。カクテル光線を背負い、一切の感情を排した機艇が、世界の支配者としてそこにいた。鎌倉明奈。近づく者のマブイを内側へ強制的に吸い込んで無効化する、完璧なる捕食圏。
恐怖はない。勝ちたいという欲望すら、この震える機体の上では、ただの不純物に過ぎない。
俺の意識が、三十九号機の金属の皮膚、そして住之江の冷たい水底の重力と同化していく。計算も、未来も、過去もいらない。ただ、機械そのものの鉄のロジックへと己をすべて明け渡し、この第一ターンマークに刻み込まれる、一瞬の爆発だけを信じる。
本戦開始を告げる重厚なファンファーレが、住之江の巨大なスタンドに響き渡り、数万の大歓声がコンクリートの壁を震わせた。
「行くぞ、三十九号。……世界を、塗り替えにいくぞ」
俺はヘルメットのシールドを叩き下げ、錆びついた鉄の化け物のカウルを強く叩いた。
『――大時計、始動ッ!!』
住之江の闇の中で、黒大時計の白針が回り始めた。
六艇のボートが、地獄の第一マークへ向かって、一斉にピットを弾け飛んだ。




