那珂川の陽炎、不発の火
六月下旬、福岡。夜の帳が降りてもなお、博多の底にはドロリとした濃密な熱気が澱んでいた。
那珂川の河口に位置する福岡競艇場。外海のうねりと河川の急激な干満が真っ向から衝突する変則難水面だ。カクテル光線が汽水域に乱反射し、強烈な閃光が網膜を容赦なく焼きつけてくる。
丸亀でもぎ取った住之江への切符を上田校長に見せた翌朝、返ってきたのは一言だった。「今の生半可な"無"では、住之江の第一マークで圧殺されて死ぬ。中二日で、博多の狂った潮目をねじ伏せてこい」。正直、その言葉に腸が煮えた。だが奴が間違っていないことも分かっていた。だから来た。
第十二レース優勝戦。俺――速水誠は、丸亀の激戦で軋む両腕を押さえながら、四コースに不敵な面構えで陣取る男を睨み据えた。
西野貴志。博多の荒波で叩き上げられた福岡支部のA級エース。コアマブイ値二万六千。この水面の絶対的な支配者だ。
『誠。西野の捲り差し、過去三十七本すべて電算に叩き込んだよ』
無線越しに、いつになく鋭い瓜生の声が響く。
『奴が外から捲ると見せて最内へ切り込む瞬間、右舷スカートがわずか〇・三秒だけ水面から浮く。その隙間へ、那珂川の底から冷流が湧き上がる座標を送る』
ロジックより先に、三十九号機の鉄の骨格がその隙間の存在を理解した気がした。
ゼロ――! 六艇が夜の水面を蹴り裂いた。
インコースから西野の紅蓮のマブイが爆ぜる。那珂川の汽水が沸騰して白煙が立ち込め、先行艇が水蒸気爆発で大外へ弾き飛ばされていく。西野の捲り差しが凄まじい熱波と共に切り込んできた。シールドの内側にまで生温かい熱風が吹き込み、視界が白く焼き切られかける。
平野さんの声が脳裏によみがえった。
――消すんやない。薄くなれ。命の密度を、冷たい海水と同じにするんや。
俺はマブイを推進力に変換するのを完全に放棄した。カウルと水の境界線へ、気配をどこまでも極薄に引き延ばす。完全な無には、まだ遠い。ならば不完全なままでいい。一千のすべてを、千切れかけたクランク軸の空白だけに流し込み、走るためのあらゆる邪魔を水面から消し去る。
西野の右舷が、那珂川のうねりに乗って一瞬だけ浮いた。
「そこだァァァッ!!」
スロットルを踏み抜く。沈黙していた三十九号機が、漆黒の脈動を一気に爆発させた。気配を消した銀色の閃光が、紅蓮の熱波の裏側へ、針の先ほどの隙間に滑り込んでいく。第一マークを捉えた瞬間、俺は確かに感じた。水面が、三十九号機の底面に吸い付いている。機体と海が、同じ呼吸をしている。これが、平野さんの言っていた境地の、入り口だ。
バックストレッチ、チルト三・〇の直線伸び足が爆発する。西野の圧倒的な出力が追いかけてくるが、俺はその正面をただ薄くなって滑る。第二マーク、西野が俺を捉えきれずに旋回を膨らませた瞬間、内側へ鋭く捩じ込んでホームストレッチへ抜けた。
「六号艇、一着。速水誠!」
レース後のピット。薄暗がりの中、敗れた西野がコンクリートの床に座り込み、プロペラをヤスリで削りながら俺を見つめていた。
「勘違いしたらいかんばい、ルーキー。あの第一マークの刹那、三十九号機が俺の目からもレーダーからも完全に消えた。二万六千の俺が、一千のお前を見失った。それが事実たい。……ついてこい、もつ鍋奢ってやる」
夜の中洲、屋台の軒先。西野が注いだもつ鍋の湯気の向こうで、俺は冷えたビールを置いた。
「一つだけ聞いていいですか。マブイが少ない人間は、本当に上へ行けますか」
西野の笑顔が一瞬だけ止まった。スープをじっと見つめ、呟く。
「俺の二万六千がエースと呼ばれるのは、九州の地方戦までたい。住之江のSGに行ってみろ。二万台なんて路上の石ころみたいに転がっとる。量も技術も兼ね備えた十万超えの本物の修羅が、上から踏み潰しに来る世界たい。お前、その一千の体で、とんでもなか怪物を飼い慣らしようとしてるぞ。……次は数式に組み込んで叩き潰しに行くたい。覚悟しとけよ」
俺は湯気の向こうで、西野の目を正面から受け止めた。十万超えの修羅。三年前に沈めたあいつへ、胸を張って会えるような水面で。
「はい。次も絶対に負けません」
西野が豪快に笑った。菜奈が隣で「……まったく」と呟き、珍しく目を細めた。瓜生が端末のキーを、指先をかすかに震わせながら猛烈な速度で叩き始めた。俺はその指の震えを横目で見て、黙って鍋の具を口に運んだ。相棒が計算の先へ行こうとしている。それだけで十分だった。
深夜、静まり返った格納庫。俺は一人、三十九号機の錆びたカウルに触れた。かつて命を吸い尽くそうと暴れていた怪物は、今は深海の水のように静かで、しかしどこまでも底知れない脈動を返してくる。
平野さんはまだ届かないと言った。だが今夜の第一マーク、あの一瞬だけ、水面と機体と俺が同じ呼吸をした。届かない。でも確かに近づいている。
十万超えの修羅が待つ聖地へ、俺たちは行く。




