讃岐の雨、水神の影
丸亀。暴風雨が、瀬戸内の海面を獰猛な殺戮の舞台へと変えようとしていた。
一コースに君臨する平田千夏。コアマブイ、五万八千。菜奈の過去を焼き切り、水上の死神と呼ばれる女。
「瓜生、十パーセントの野生を信じるぞ」
「推奨はしないがね。……データは送った。跳べ、誠」
大時計の針が消え、六艇が闇を蹴り出す。千夏の引き波は雨粒さえも瞬時に蒸発させ、後続の艇を容赦なく圧殺しにかかる。だが、俺は自らの中の一千のマブイを極限まで薄く引き延ばし、平野さんから盗んだ「虚無の旋回」を敢行した。水面との摩擦をゼロにする、無の軌跡。大外から鋭く切り込み、一瞬、俺の三十九号機が死神のインを捕らえ、先頭を奪った。
勝てる――そう確信し、俺の胸にわずかな「傲慢のノイズ」が走った瞬間、千夏の真の切り札〈全開全解〉が炸裂した。
彼女の膨大なマブイが水面の全粒子と完全同期し、三十九号機のハル(船体)が受ける水の抵抗をコンマ数秒で倍加させる。平野さんの教えを忘れ、力でねじ伏せようとアトモスを過剰に噴出させてしまった俺の隙を、死神は見逃さなかった。完璧な演算によって俺のグリップが喪失した瞬間、千夏の銀色の艇が、剃刀のような鋭さで内側を差し返してきた。
チェッカーフラッグが振られる。一着、平田千夏。二着、速水誠。
ピットに戻った俺は、ステアリングを猛然と殴りつけていた。激痛が走るが、そんなものはどうでもいい。平野さんの技術を完全に模写しきれず、己の感情に負けた悔しさが、泥水のように喉の奥に溜まっていく。
深夜、静まり返った食堂のテーブルに、一枚の硬質なプラスチックカードが残されていた。
――住之江周年記念、特別招待枠「ワイルドカード」。
「僕の電算を一時的にフリーズさせたのは、あの山崎以来だよ、速水誠」
いつの間にか背後に立っていた千夏が、感情の消えた瞳で俺を見下ろしていた。彼女のバッグのジッパーには、菜奈とお揃いの、塗装の剥げかけた安物のキーホルダーが揺れている。すべてを捨てて化け物となった彼女もまた、俺と同じ、呪いに魅入られた人間なのだ。
「住之江で待っているわ。そこで、あなたのその『歪み』のすべてを解体してあげる」
千夏が去った後、カードを拾い上げた菜奈の手が、小刻みに震えていた。彼女の涙がトレイに弾ける。
「誠、お願いじゃけぇ……千夏を止めて。あの子、あのままじゃ自分のマブイの熱量で、本当に焼き切れて死んでしまう。あんたの走りで、あの子を現実へ引き戻して……!」
復讐じゃない。これは、狂気に囚われた者たちを救い出すための戦いだ。
瓜生がカードの裏面を端末でスキャンし、眼鏡の奥の目を鋭く細めた。
「やはりね。この招待枠の暗号、三十九号機の『違法バイパス』の周波数と完全に一致している。住之江には、この機体の秘密を握る黒幕が確実にいる」
今のままじゃ、聖地で確実に殺される。だが、望むところだ。
平野さんから掴みかけた“無”の旋回を、己の命そのものをチップにして完成させてやる。
三十九号機よ、俺たちの本当の戦場へ行こうぜ。




