薄くなる血
午前二時。下関のピットは、潮風とテストエンジンの重低音だけが支配していた。
俺――速水誠は三十九号機の前に座り込んだまま、両腕を膝の上へ落とした。禁忌の夜間解体から続く疲労と痛みで、筋肉が小さく痙攣している。昼間、唐戸市場で鎌倉明奈の重力波を受けた瞬間の感覚が、鼓膜の奥でまだ鳴り続けていた。
(無にしろ、と言った。だが、俺がアトモスを完全にゼロに近づけたら、水上で何が残る)
「……また、マブイの量という目に見える呪いに囚われとるんか」
背後の闇から声が落ちた。気配が、まったくなかった。俺は弾かれたように振り返る。
平野一貴。マブイを一切外に放たない、山口支部の絶対的な大エースだ。平野さんは俺に視線すら向けず、三十九号機の歪んだクランクケースを見つめていた。
「この主軸の歪み方……十年前、俺がA級に上がる前、この関門の三角波で右腕ごとへし折られた艇と同じ血統や」
無造作に捲り上げた作業着の袖から、鈍い銀色のチタン製の義手が現れた。俺は息を呑む。三十九号機は、この山口のエースの肉体すらも貪った、呪われた欠陥機の直系だった。
平野さんがチタンの指先を、俺が三日間苦しんでいたハイドロバルブへそっと添えた。カチ、と冷たい音が響く。その瞬間、俺の腕を痺れさせていた不快な二次振動が、嘘のように消え去った。
「マブイを流したんですか……?」
「力を入れとらんだけや。ボルトが行きたがっとる角度に、指を添えてやっただけ。機械と喧嘩するな。……ついてこい、ルーキー。お前のその薄いマブイの、本当の使い方を教えたる」
満月が黒い海面を銀色に染める、深夜の立ち入り禁止訓練区域。夜間警備の目を盗み、三隻の艇が関門の闇へと滑り出した。俺と瓜生、そして先行する平野さんだ。
平野さんの艇には、派手な発光も、水面を叩く衝撃音すらない。気配を完全に消し去ったまま、恐ろしい速度で加速していく。
「支配するんやない。己の邪魔な存在感をただ消すんや」
通信機から瓜生の声が、珍しく戦慄に震えて響いた。
「平野さんの艇が通った航路だけ、水面の摩擦係数がほぼゼロに書き換わっている……! 波が、一歩も立っていない……!」
眼鏡の奥の瞳で計器を凝視する瓜生の顔が、データの向こうで蒼白になっているのが想像できた。
「虚無の手」の終着点を、奴は今、数値として目撃している。
俺はスロットルを握り、平野さんが残した"摩擦ゼロ"の残像へと飛び込んだ。マブイを出力に変えるのをやめ、自らの魂を水面との境界へ薄く薄く引き延ばしていく。アトモスを内側へ、さらにその奥の心臓部へ押し込め、外への漏れ出しを完全なゼロへ――
「ガハッ……!」
肉体を内側から引き裂くような逆流が俺を襲った。三十九号機が「主人の命の火が消えかけた」と誤認し、残りのマブイを体内から力づくで引きずり出そうと暴走したのだ。血管を焼く霊子の奔流。ステアリングに額を叩きつけ、俺は鮮血を吐き散らした。
二度目。マブイの引き延ばし方を変えて試みた瞬間、今度は視界が白く飛んだ。心臓が一瞬、完全に停止する感触。そのまま水底へ落ちていくような暗闇の中で、俺はステアリングを離さなかった。
ボートを反転させ、戻ってきた平野さんが初めて口を開いた。
「消そうとするからや。消すんやない。薄くなれ。お前の命の密度を、この関門の冷たい海水と同じにするんや。力を抜いて、ただ待て」
三度目。俺は意地だけで試みた。波に揺れる機体の鼓動に、己の鼓動を合わせるように。今度は逆流は来なかった。だが水面との境界が一瞬だけ溶けかけた瞬間、恐怖が走り、俺は無意識にアトモスを張り直していた。防護服の内側が、じわりと赤く滲んでいた。
夜明け前、特訓が終わった。俺は這うようにしてピットへ戻り、冷えたコンクリートに膝をついた。
平野さんが最後に言った言葉が、耳の奥に残っている。
「焦るな。俺がこの腕を失ってから、今の境地に辿り着くまで、七年かかった。一朝一夕で届く領域やない。時間がないからと近道を探すな。それはレーサーとしての死や」
そして一度も振り返らず、朝霧の中を歩き去った。
静まり返ったピットに戻ると、新谷菜奈がタブレット端末を胸に抱えたまま立ち尽くしていた。あの小気味よい土佐弁のトーンが、完全に消えている。
「誠……丸亀のエントリー表……これ、見て」
画面には、血のように赤く強調された一人のレーサーの名前があった。
――平田千夏。
「……うちの幼馴染。そして、うちの人生を木っ端微塵に壊した死神や」
菜奈の細い指先が、タブレットの縁を白くなるほど握り、小さく震えていた。しばらく沈黙してから、搾り出すように続けた。
「二年前のルーキー戦で、うちの艇に時速百キロで殺意のダンプをかましてきた。霊子心臓部が爆発して……あいつ、笑いよったんよ。うちのプロライセンスも、網元の実家も、マブイ回路も全部消えていく間、ずっと笑いよった。コアマブイ値は五万八千。丸亀の水面を血に染める、本物のバケモノや」
菜奈は震える手で、俺の血塗れの防護服を強く掴んだ。涙で滲む瞳が、俺を真正面から見据える。
「誠。うちの代わりに、あの女を、あの丸亀の水面で沈めて……!」
俺は、まだ熱を帯びた三十九号機のカウルに掌を当てた。
まだ届かない。だが、この「死の体感」を泥だらけになって毟り取らなければ、五万八千の死神には勝てない。
「任せとけ、菜奈」
菜奈の細い指が、俺の防護服の裾を、力いっぱい握り締めたまま離さなかった。




