黒銀・大渦旋回
二〇二九年、五月六日。ボートレース下関――最高峰SG「衆望万魂祭」、準優勝戦・第十二レース。
スタート展示。一号艇に鎮座する三十九号機から放たれたのは、もはや従来の超伝導エンジンのような排気音ではなかった。「……シュゥゥ」という、周囲の大気中の熱量と音のデータすべてをその内部へと吸い込むような、不気味極まりない吸気音。
スーがコックピットの底で深紅の瞳を激しく滾らせ、その黒い牙を剥き出しにしながら、漆黒の毛並みから黒い紋様を激しく走らせていた。スーの深紅の瞳が大時計の方向を鋭く見据え、低く唸り続けた。その唸りが俺の脳内に時間が止まる感覚をもたらした。
展示ダミースリットを通過した直後、実況アナウンサーの声が、正体不明の恐怖によって激しく裏返った。
「な、なんと……ッ!? 一号艇・速水誠、展示STリザルトは……【.〇〇】!! 究極のタッチスタートを計測いたしましたァァァッ!!!」
二コースの河田元気さんがコンマ〇八、三コースの幸田文哉さんがコンマ一〇。誠はその工学的絶望とも呼べる差を以て、世界の超一流たちを完全に突き放してみせたのだ。
「あんなの、生身の人間の脳ニューロンが制御できるタイミングじゃないっすよ……!」
五コースで出走しているあかりが、震える手でハイドロハンドルを強く握り直す。誠の放つ黒影の出力が、この下関の空間の流体時間を、物理的に歪め始めていた。整備士としての感覚が残っている彼女の直感が、この世の理から逸脱した「壊れた世界のバグの予兆」を激しく告げていたのだ。
本番レースの待機行動。ピットを離れた瞬間から、三号艇の守屋あおいが、俺の懐へとそのカウル外殻を物理的に激しくぶつけ合わせる「絶対管理心中」を敢行してきた。
「誠くん。あなたをあの暗く冷たい影の底に、たった一人で置いていったりはしないわ。……もう、私の許可なく私以外の誰の引き波も視界に入れる必要なんてないのよ……!」
部屋の壁の写真が十枚目に達したことによる、彼女の独占欲の冷却パルス。それが三十九号機を自殺行為に近い深イン地獄へと力ずくで引きずり下ろした。助走距離は完全にゼロに近い。このままでは、第一マークに到達する前に全艇の引き波の底へと沈没させられる。
大時計の針が真上を向いたその瞬間。
漆黒のシステムログが適合率百分のゼロに達し、激しくスパークした。
本番レースにおいて、再びの【.〇〇】!!
深インの絶壁の中で流体時間を物理的に静止させ、三十九号機はスリットラインの座標を「消失」するかのような神速で、完璧に通過した。幸田さんがコンマ〇一、あかりと河田さんがコンマ〇二。上位四人がコンマ〇二秒以内にひしめき合う、からくり競艇史上未曾有の超絶電算限界スリットがここに確立された。
第一マーク。
四方から強豪たちの放つ属性マブイパルスが一斉に収束し、激突する。多重属性の破壊エネルギーが正面衝突した瞬間、高さ十メートルの巨大な電算水柱が全世界のモニターの視界データを一瞬で奪い去った。
しかし、その衝撃波の真の中心座標において、俺の三十九号機だけが、不気味なほど異常な絶対の静寂の中にいた。
「みんなの宿す看板の質量、ものすごく重いよ……。でもね、その悪意も誇りの重さも、今の俺とスーのプロペラにとっては、ただの最高の加速燃料なんだ――ッッッ!!!!」
黒影コアの出力を最大臨界まで完全開放。四方からの攻撃エネルギーのすべてを暗黒引力へと強制因果転換し、推進トルクへと反転コンパイルする禁断の暗黒垂直旋回――「黒銀・大渦旋回」が、下関の水面で炸裂した。
あおいの心中結界も、河田さんの光速の差しも、大峰さんの龍神の壁も、接触コンマ〇〇秒でその出力をすべてデバフ吸引され、一斉に流体失速して崩壊した。
三十九号機だけが、異次元のトップエンド加速を以て、独走のままバックストレッチへと抜け出した。
しかしその時、コックピットには得体の知れない腐食臭が満ち、俺の右腕のナノ端子の黒い紋様が、あまりの負荷に激しく浮き上がっていた。
右腕のナノ端子から、大内が事前に設定していたアラートが走った。
【警告:操縦者精神殻の限界寿命まで残り三コンマ。脳融解を回避するため、出力を今すぐ逆位相反転コンパイルせよ】




