マブイの墓標
二〇二九年、五月。ボートレース下関――SG「衆望万魂祭」、予選三日間の全レースが終了。
場内の特設電算ステージにて、準優勝戦の運命を左右する枠番抽選会が執り行われようとしていた。全世界八千万人の競艇ファンが、そのモニターの向こう側で固唾を呑んで見つめる中、一人の青年が静かにステージへとその姿を現した。
速水誠だ。
その姿が大型ホログラムモニターに映し出された瞬間、会場を埋め尽くしていた地響きのような大歓声はピタリと止み、そこには異様なまでの静寂が広がっていった。かつて纏っていた清廉な白銀の勝負服は、黒影コアの過負荷によって煤けた暗黒の影を重く帯び、バイザーを外した瞳の奥には、赤黒い破壊の火花が不気味に散っている。スーもまた、かつての純白だった体毛から黒い紋様を走らせ、その眼は赤く明滅していた。
スーが、俺の足元でその毛並みを激しく逆立て、紅い瞳を怪しく明滅させて低く唸る。その唸りが俺の中の飢餓感と共鳴した。
デジタル抽選のランプが激しく点滅した瞬間、絶好枠の一号艇を毟り取った俺と、大外六号艇となった幸田文哉さんの視線が、ステージ上で真っ正面から激しく衝突した。
「速水誠くん。君がその身に宿してしまった、その禍々しい黒い石。それが一体何であるか、本当の意味を理解しているかな?」
還暦まで下関の水面で走り続けた幸田さんが、この海峡の歴史を知っていた。その枯淡な声が、会場全体に重々しく響き渡った。
「かつて、この関門海峡の底に厳重に封印されていた「マブイの墓標」の、最も狂暴な一部分……。過去のすべての敗者たちが遺した、負の怨念パケットを吸い込みすぎた、呪われたカウルの欠片だ。……君のような若い精神殻で、その歴史の恐ろしい重みに、準優勝戦の最期まで耐え切ることが果たして出来るかな?」
三十九号機が「呪われた欠陥機」と言われていた理由が、今ここで明らかになった。第1話でこの機体を俺に手渡した上田校長は、それを知っていたのだろうか。
その瞬間、ステージ中央のマイクがキィィィィィンと激しいハウリングを起こし、大型ホログラムモニターに凄まじい走査線ノイズが走った。黒影コアが幸田さんの放つ光の威圧に過剰反応し、周囲の空間電算をハッキング侵食し始めたのだ。
「……歴史がどれだけ重かろうが、世界のアンチの悪意がどれだけ濁っていようが、俺には関係ない。俺のこの右腕で、すべてを最速の推進力へと因果転換するだけです」
俺は冷酷に、静かに、レジェンドを見つめ返した。
「あなたのその眩しすぎる現役最古の光の質量も……明日の準優勝戦の第一マークで、俺とスーが、すべてを綺麗に残さず飲み込んで差し上げますから」
これでいいのか、という声が一瞬だけ頭の奥でした。でもすぐに黒影の拍動がそれを飲み込んだ。
遠い袖からその背中をじっと見つめる野田あかりが、唇を強く噛み締めた。
「誠師匠がどれだけ闇の深淵へ行こうとしても、俺のこの右腕の整備技術は、絶対に師匠を捕まえて、その核を直してみせるっす……!!」
夜。一切の明かりが消された第三整備室の暗闇の中で、俺はただ独り、三十九号機の黒影のハイドロエッジを、グローブを外した右手で静かに、しかし丁寧に磨き続けていた。
(あかり、大内さん。せっかく調律の光で俺を救ってくれたのに、本当にごめん。……でも、俺とスーはもう、この禁忌の力がないと、あの絶対神域にいる幸田さんの待つ最速の頂点へは、あと一コンマも届かないんだ……)
かつて、下関のホーム水面で、あかりたちと笑い合っていたあの純粋な白銀の景色の記憶データが、関門海峡の夜闇の中へと冷酷にかき消されていく。
準優勝戦第十二レース。
それは、俺が「白銀の英雄」として還るのか、それとも「漆黒の魔王」として頂点に君臨するのかを決める、下関の楕円の上の冷酷なる審判だった。




