第85話:弟子の咆哮、師の意地 ― 鳴門に響く「鋼の共鳴」 ―
鳴門の審判――「ゴール板」という名の境界線
ボートレースにおいて、勝敗を決する最後の直線「ホームストレッチ」は、技術の域を超えた精神力の削り合いとなる。特に、からくり競艇におけるゴール直前は、溜まりに溜まったマブイの残滓と、ファンの熱狂が物理的な質量を伴ってレーサーを襲う。
ボートレースの順位は、艇の先端がゴールラインを通過した瞬間の順序で決まる。通常、時速80kmを超える速度で飛び込むため、人間の目では判別不可能な「ハナ差」が頻発する。からくり競艇では、この0.001秒の差に、レーサーの魂の「密度」が反映されると言われている。
機体はコースを走り抜ける過程で、凄まじい熱量とマブイの摩擦に晒される。最終周の第2マークを回る頃には、エンジンやマブイ・コアは限界を超え、いつ爆発してもおかしくない状況にある。これを制御し、最後の一伸びを絞り出すのは、もはや機械の性能ではなく、レーサーとペットの「共鳴」そのものだ。
2029年5月4日(祝)。ボートレース鳴門、『衆望万魂祭』予選二日目、第11レース。
最終周、第2マーク。鳴門の海面は、数千万人の期待(衆望)と選手たちのマブイが激突し、もはや海水の色が見えないほどに白く、激しく沸騰していた。
「誠! あんたの『密度』、俺と毅でこじ開けるばい!!」
2番手につけていた宮地明が、捨て身の勝負に出た。
師匠・大峰幸太郎譲りの重厚な旋回に、自らの若さと、機獣「毅」が持つ鋭い「嗅覚」を乗せる。誠の39号機が異常振動によってわずかにバランスを崩し、その懐に生じた「マブイの裂け目」。
宮地はそこへ、心臓を射抜く弾丸のような差しを突き刺した。
ガリィィィィィィン!!
誠の機体と宮地の機体が、回避不可能な距離で接触。強烈な衝撃波と火花が、鳴門の夕闇を照らす。
(誠、こいつ……俺たちの『揺れ』の隙間を完全に読み切ってやがる! ビーグルの嗅覚が、マブイの綻びから俺たちの精神波を逆探知してやがるぞ!)
シロが機体の中枢で必死に防壁を再構築するが、宮地の「差し」は止まらない。宮地のボートは、誠のインコースに完全に入り込み、二艇は互いのカウルをぶつけ合うような並走状態で、運命のホームストレッチへと雪崩れ込んだ。
誠の腕は、長期の戦いと「異常振動症」によって、すでに感覚が消失していた。ハンドルの重みすら感じない。ただ、脳に直接伝わる機体の悲鳴だけが、自分の生存を知らせていた。
だが、彼はハンドルを離さない。いや、離せなかった。
「……宮地さん、いい差しだ。でも、俺にはここで退けない理由がある。連覇を待っている人たちのために!」
誠は、大内の制止する通信を物理的に遮断した。そして、機体から漏れ出す制御不能の「黒い雷鳴」――変質した衆望の奔流を、あえて自らの神経系に直結。
その瞬間、誠の全身を焼くような激痛が走り、視界が白銀から漆黒へと塗り潰される。
「シロ……すべてを、プロペラへ!!」
異常振動を、無理やり推進力へと変換。39号機のプロペラは、理論上の限界回転数を超え、水面を叩く音が「音」から「衝撃波」へと変わる。
白銀と黒の光が渦を巻いて混ざり合い、39号機はもはや水上を走るのではなく、反重力によって浮上し、空間を滑走するほどの加速を見せた。
その後方では、さらに凄まじい「執念」の削り合いが展開されていた。
先行する西野貴志の「爆炎」は、過負荷によって機体そのものを真っ赤に染め上げていた。エンジンルームからは黒煙が上がり、冷却水は蒸気となって噴き出している。
「おいたちが……ここで……終わって……たまるかぁ!」
西野は、もはや計器など見ていない。ただ、目の前を走る誠と宮地の航跡だけを見つめ、自身のマブイを燃料としてエンジンに注ぎ込み続ける。
しかし、そのすぐ後ろには、宮地の師匠・大峰幸太郎がいた。
大峰は、荒ぶるマブイをあえて鎮め、静かなる「龍神」の波動を機体に纏わせる。一歩一歩、確実に、残酷なまでに精密に、西野の背中を追い詰めていく。
(行け、明。……お前の背中は、この俺が支えてやるたい)
弟子の宮地がトップを争っている。その背後を守り、敵の追撃を遮断するのが師匠の務め。大峰の重圧感溢れる追走は、西野の機体の挙動を物理的に制限し、宮地が誠を攻めるための「安全圏」を作り出していた。
鳴門のゴール板が迫る。
数千万の観衆の「衆望」が、マブイ石を白熱させ、会場全体が昼間のような明るさに包まれる。
【予選二日目 11R:ゴール直前・形勢】
| 順位争い | 枠番 | レーサー | 状態・マブイ | 状況 |
| 1位争い | 1 = 2 | 速水 誠 vs 宮地 明 | 「黒い共鳴」vs「執念の嗅覚」 | 完全に並んだ。スリットまであと50メートル。 |
| 3位争い | 4 ≧ 3 | 西野 貴志 vs 大峰 幸太郎 | 「爆炎の粘り」vs「龍神の伸び」 | 西野が僅かに前だが、大峰が内側から伸びを見せる。 |
「届けぇぇぇぇぇ!!」
宮地が機体から身を乗り出すようなモンキー姿勢で、最後の一伸びを絞り出す。
対する誠は、黒い雷鳴の中に身を投じ、意識が混濁する中で「白銀の針」をゴールラインへと突き立てた。
ドォォォォォン!!
二つの光の塊が、同時にゴールラインを突き抜けた。
直後、誠の機体からは黒い煙が上がり、宮地の機体はマブイの反動で大きく跳ねた。
西野は執念で3着を死守。大峰は、ゴール直後に弟子の機体に寄り添うようにして艇を寄せた。
電光掲示板に「写真判定」の文字が灯る。
鳴門のスタンドを埋め尽くした数万の観衆、そして画面越しの数千万人が、固唾を呑んでその結果を待った。
誠は、コックピットの中で力なく項垂れていた。シロとの接続が切れ、全身を襲うのは、かつてないほどの虚脱感と、黒い雷鳴が残した焼け付くような痛み。
隣を並走していた宮地が、荒い息を吐きながら誠の機体を見つめる。
「……誠さん……あんた、化け物たい……」
掲示板の1番上に表示された数字。
それは――。




