動的逆位相相殺
二〇二九年、五月。ボートレース下関――SG「衆望万魂祭」、予選三日目の深夜。
第三整備室の薄暗い蛍光灯の下で、俺――速水誠は、自分の右手をじっと見つめていた。
震えが止まっている。第79話以来、ずっと止まらなかった激痛の震えが、嘘のように静止している。代わりに、手の甲のナノ神経系の下を、黒い脈動が静かに流れていく感覚がある。
「大内。俺の属性データを解析してくれ」
隣に立つ大内胤賢が、電算端末を俺の手首のセンサーパッドに当てた。しばらく沈黙が続く。
「……誠。君の属性の基本周波数が、金属属性の白銀帯域から、完全に逸脱している」
「何属性になった」
「オニキス。黒瑪瑙の属性だ。金属属性の対極——光を吸収し、密度を内側へと閉じ込める属性。白銀が「放射」の属性なら、オニキスは「吸収」の属性だ」
俺は右手を静かに握り締めた。失ったのか。深化したのか。まだ分からない。
「黒田さんは、もう戻れないと言った」
「黒田さんの言葉は正しい。金属属性のままでは戻れない。でも誠、オニキスは金属の死じゃない。金属が内側へと向きを変えた状態だ。白銀が外へ放つ刃なら、オニキスは内へ向かう錐だ」
足元で、スーが低く鼻を鳴らした。黒い紋様が走る毛並みは、まだ元に戻っていない。だが、その瞳は赤から少しだけ、金色に近づいていた気がした。
「スー、お前も変わったな」
スーが「フンッ」と一度だけ鼻を吹いた。「俺はどこへも行っていない」という返事だと俺は受け取った。
整備室の外、廊下の暗がりから声が届いた。
「誠くん」
守屋あおいだった。扉の向こうで立ったまま、入ってこない。
「あの時、スーの毛並みが一瞬白銀に戻るのが見えた。完全には変わっていない。黒影は誠くんの本質じゃない。でも……このまま制御できずに暴走させたら、私たちが山口の平水面で並んで走っていたあの感覚に、本当に戻れなくなる」
俺は扉の向こうのあおいに、静かに答えた。
「分かってる。次の予選で、オニキスを制御した状態で走る。暴走させない。黒影を、俺の意志で扱う」
「できるの?」
「やってみる。それしかない」
しばらく沈黙があった。それからあおいが、ドアの向こうで小さく言った。
「……スーの紋様が消えたら、教えて」
スーが俺の足元で、短い尾をゆっくりと一度だけ振った。
オニキス(黒瑪瑙)。金属の内側への転化。俺はまだこの力の全貌を知らない。でも、次の水上で、制御した状態で使う。それが今の唯一の答えだ。




