超広帯域負因果放射
二〇二九年、五月。SG「衆望万魂祭」、予選三日目の第二レース。
一コースのイン戦に据えた野田あかりの網膜バイザーの奥には、悲壮なまでの強い決意が宿っていた。
「誠師匠に、あの山口の夕暮れで一緒に見ていた、本当の白銀の最速のラインを取り戻すきっかけを、俺たちの腕でこの水上に見せるっす!!」
二コースから、先輩格の遠縁の姉貴分である真理子さんのカウルがピタリと真横に並ぶ。二艇は待機行動の段階から、まるで鏡合わせのごとき精緻な同時同調操舵を披露し、スリットラインの手前に強固な防御電算陣形を瞬時に構築した。対する三コースから、獰猛に牙を剥くのは守屋あおいだった。愛機「氷麗」から放たれる氷属性のマブイパルスは、前夜の写真判定一着を経て、さらに鋭利なまでの硬度を増している。
電子大時計がゼロを刻んだ瞬間、あかりがイン側の鉄壁の壁となり、真理子さんが守屋あおいの懐へと鋭角に飛び込んだ。
「今っす、真理子さん!! プログラムを展開するっす!!」
「了解! あかりちゃん、後ろを一コンマも振り返らず、前方の最速データだけを見て走りなさい!!」
二艇のカウル前面に、巨大な金属性の光の質量障壁――「野田家・双子星」が完全に形成された。しかし、第一ターンマークの手前、その眩い光の盾を正面から見据えたあおいが、解析バイザーの奥で冷酷に微笑んだ。
「その程度の、生易しい絆の数値で、私の氷の背中を止められると思っているの?」
キィィィィィンッッッッ――!!!!
「氷麗」から爆発的な絶対零度の冷気パルスが広角に放出され、下関プールの激しい汽水流が、瞬時に物理凍結。あおいはその自ら作り出した氷の斜面を、ハイドロ底板の滑空レールとして鮮やかにハッキング利用し、双子星の光の盾に生まれた僅かな継ぎ目へと、鋭利な氷の楔を力ずくで打ち込んだ。
まさに、その瞬間だった。
ピット裏の第三整備室で、自らの出走を静かに待つはずだった、俺の三十九号機のカウル全体から、周囲の大気構造を激しく捻じ曲げるような、禍々しい黒い放電パルスがドクドクと溢れ出した。
これまで「漆黒の放電」と呼んでいた力が、三十九号機の新しいコア――「黒影」に取り込まれ、暴走を始めていたのだ。水上のあおいが放つ強烈な氷の嫉妬電荷と、野田家同盟の焦燥パケットデータにピット裏から過剰に異常同期。現在進行中の第二レースのフィールド全体を、その内側から力ずくで侵食ハッキングし始めた。
「あかり……真理子さん……。そんなに苦しいなら、俺の闇が、その過負荷ノイズのすべてを全部、内側から吸い尽くして飲み込んであげるから……」
完全なトランスに陥った誠の無意識の電算呟きが、相棒のスーの放つ電子咆哮となって、第二レースを最速で滑走する全艇のインカム回線へと、ダイレクトに強制ブチ込まれた。
「ウォォォォォォォォォォォンッッッ――!!!!」
第一ターンマークの汽水面から、異次元のハッキング――「超広帯域負因果放射」の黒い霧が、プールの上へと爆発的に噴き出した。
あおいの氷のレールも、野田家同盟の光の盾も、ピット裏にいる誠からネットワーク経由で広角排気された暗黒重力の負の密度に触れた瞬間に、すべて影の色へと黒く染まっていく。
「電子センサーの波形が……誠くんの白銀の気配そのものじゃない!? なのに、どうして、私の嫉妬パルスすらも凍りつくほど、こんなに冷たくて暗いの……っ!?」
あおいが、生まれて初めての本当の精神戦慄に脳ニューロンを激しく狂わせた。
暗黒の霧の中、三艇はカウル前面の前方レーダーを完全にブラックアウトされ、互いのハイドロから漏れるマブイの排気残響だけを頼りに、激しく底板をぶつけ合いながら、電子ゴールラインへと雪崩れ込んだ。
一着は、野田あかり。あおいをハナ差で抑え切った。あかりがSGの舞台で初めて掴んだ一着だった。
しかしあかりはゴール後、コックピットの中で視覚センサーを戻しながら、静かに呟いた。
「師匠が今放っているのは、闇じゃないっす。ただ一人で全部抱え込もうとした、この山口支部への、不器用な愛情の過負荷っすよ」
その言葉が、下関の激しい汽水面を静かに伝わった。
ピット裏の第三整備室で、誠の足元にうずくまるスーが、一瞬だけ、穏やかな白銀の色にその毛並みを変えた。それだけだった。すぐに黒い紋様が戻ってきた。
しかし、その一瞬の白銀を、あおいは確かに見ていた。
整備室の入り口の深い影。黒田瑛人さんが、硬い鉄扉にその分厚い右腕を預け、咥えた煙草の煙と共に静かに呟いた。
「……速水、お前はもう――山口の、あの綺麗な白銀の平水面へは、二度と引き返せんぞ」
足元では、スーが全身に煤のような黒い紋様を走らせたまま、誠の足元へと静かに寄り添い、その紅い瞳を閉じた。
誠の右腕の激しい震えは、不気味なほど完全に静止していた。しかし、その代償として、胸の奥底からは――黒影のコアと不気味に同調した、冷酷で重厚な暗黒の鼓動が、ドクン、ドクン、と冷たい拍動を刻み始めていた。
金属属性の白銀。それが今、オニキス(黒瑪瑙)へと変容しつつある。失ったのか。深化したのか。誠にはまだ、その答えが分からなかった。




