第81話:天女の氷、レジェンドの深淵
からくり競艇におけるスタートは、単にラインを越える速さだけではなく、**「どこから加速を始めるか」**というポジショニングによって大きく二つのスタイルに分かれる。
スロー(Slow):
主に内枠(1〜3コース)の艇がとる戦法。スタートラインに近い位置で待機し、短い走行距離で第1マークを旋回する。最短距離を走れるメリットがあるが、加速距離が短いため、後方から突っ込んでくるダッシュ勢の「引き波」に飲まれやすいリスクを伴う。
ダッシュ(Dash):
主に外枠(4〜6コース)の艇がとる戦法。ラインから遠く離れた位置まで艇を引き、全速力の助走をつけてスリットに飛び込む。最高速に達した勢いのまま内側の艇を抜き去る「まくり」を狙えるが、ターンの際に外へ膨らみやすい。
鳴門の激流においては、この「加速の助走」と「潮流」の読みが、マブイの出力以上に勝敗を分かつ残酷なファクターとなる。
2029年5月3日。SGレース『衆望万魂祭』ドリーム戦。
独走態勢を築き、勝利を確信していた守屋あおいの視界に、巨大な重圧を伴って幸田文哉の影が滑り込んできた。
「守屋くん、いいスタートだった。若さゆえの鋭さは認める。……だが、鳴門の渦は『速さ』だけでは越えられない。水と、風と、衆望……そのすべてを自分の重みに変えてこそ、ここを支配できるんだよ」
2周目バックストレッチ。幸田の機体「阿波の跳ね馬」は、チルト3.5度の極致により、水面に触れるか触れないかの超低空飛行で加速。守屋が展開していた「嫉妬」の氷の結界を、幸田の放つ圧倒的なマブイ密度が、物理的なハンマーのごとく粉砕していく。
「……っ! 幸田さん、どうして!? 私のマブイが押し返される!?」
守屋の瞳に絶望がよぎる。逃げようとするほど鳴門の渦が幸田の味方をし、守屋を「中心」へ吸い込み、幸田を「前方」へと押し出す奇跡的な逆転現象が起きていた。
その後方。西野、大峰と死闘を繰り広げていた速水誠は、前方の二人が放つ密度の激突に息を呑んだ。
「(これが……本当のトップレベル。守屋さんの逃げを、幸田さんは小細工なしの存在感だけで壊している。物理法則そのものを書き換えているんだ)」
(誠! 見惚れてる暇はないぞ! 幸田さんの密度がブラックホールのように、後方の俺たちのマブイまで引き寄せてやがる。このままじゃ、あの激突が作る『負の渦』に潰されるぞ!)
幸田の密度が周囲のエネルギーを吸い寄せた結果、3着争いの誠たちの機体まで加速が鈍り、バタつき始める。
「(なら、この吸い込まれる力を逆に利用してやる!)」
誠は、大気圧ジャケットをあえて全開にした。周囲から吸い寄せられる幸田の「密度の余波」を、39号機のインテークから直接取り込み、自分の圧縮コアに再充填する。
「……させるかぁぁ!!」
守屋あおいが最終ターンの2マーク、転覆覚悟の超鋭角旋回を仕掛けた。全マブイを注ぎ込んだ氷の刃のようなターン。
しかし、幸田は動じない。守屋がハンドルを入れる「0.01秒前」、彼はすでに衆望の揺らぎからその軌道を読み取っていた。幸田の艇は守屋の懐へと吸い込まれるように、残酷なまでに入り込んだ。
【衆望万魂祭 ドリーム戦:最終リザルト直前隊形】
1位争い:4号艇・守屋 vs 6号艇・幸田
「氷と無の激突」。完全に並んだゴール前。
3位争い:1号艇・誠 vs 5号艇・西野
「排気旋回」。誠が幸田の余波を吸い込み加速。西野の爆炎を紙一重でかわす。
「誠くん。君が見ているこの光景こそが、からくり競艇の『真実』だ」
幸田が静かに告げ、スロットルを押し込んだ。
ゴール。
写真判定の結果、1着はわずか5センチの差で6号艇・幸田文哉。守屋あおいは2着。そして3着には、西野の猛追を振り切った速水誠が滑り込んだ。
ピットに戻った誠は膝をついた。マブイを圧縮し、暴流を制御し続けた疲労は、これまでのどのレースよりも重かった。
「……誠くん。いいレースだったよ」
幸田が歩み寄る。その表情には傲慢さなど微塵もなかった。
「君の『密度』は、僕の余波を吸収して自分の栄養に変えた。それは、かつて黒田くんが目指していた境地の一つだ」
「幸田さん……次は、隣じゃなくて、前を走ります」
誠がまっすぐ見つめ返すと、幸田は満足げに頷いた。少し離れた場所で守屋あおいが涙を拭い、西野が悔しがり、大峰が誠の背中を叩く。
衆望万魂祭の初日は終わった。しかし、誠の中に宿った「ダイヤモンドの核」は、より深く、鋭い輝きを放ち始めていた。




