後流再充填
二〇二九年、五月。ボートレース下関――SG「衆望万魂祭」、初日第十二レースのドリーム戦、最終周回バックストレッチ。
ここまで盤石の独走態勢を誇っていた守屋あおいの網膜ディスプレイ視界に、巨大な重力質量の圧倒的な圧力を伴って、あの漆黒のカウルが音もなく滑り込んできた。
徳島のレジェンド――幸田文哉さんだ。
「見事なスタートだったよ、守屋くん。……だがね、この関門の過酷な激流は、単なるスピードの速さだけでは越えられないんだ。水流と風、そして三千万人の衆望オブジェクトデータ、そのすべてを精神殻の内側へと完全に溜め込んで「絶対の重み」へと変換できてこそ、初めてこの水域を完全に支配できるんだよ」
幸田さんの駆る「阿波の跳ね馬」が、チルト三・五度の面効果滑空を敢行。下関の汽水面に触れるか触れないかの絶妙な超低空飛行のまま、摩擦抵抗百分のゼロを完全に確立した。あおいの放つ氷の結界を、外部放射ロス百分のゼロを誇る幸田さんの質量密度が、電算ハンマーのごとく内側から粉々に粉砕していく。
「っ……あぁぁぁッッッ!? どうして私の広げた氷翼のパルスが、正面から力ずくで押し返されるの……!?」
幸田さんの前では、私の氷翼が意味をなさない。あおいがそれを悟った時には、もう遅かった。あおいがさらに霊子ボイラーの回転数を上げて必死に逃げようとすればするほど、プールに流れ込む流体電算渦のルートが幸田さんの空力数式へと味方をし、あおいの機体を最内のデッドスポットへと非情に引き込みながら、幸田さんを前方へと異常押し出ししていく。既存の物理法則をあざ笑うかのような、恐るべき逆転現象だった。
その真後ろ。大峰幸太郎さんや西野貴志さんと壮絶な三番手死闘を繰り広げていた俺は、前方の二人が放つ高次元の密度の激突光景に、激しく息を呑んだ。
(これが、本当のトップレベルの戦い……! 幸田さんは守屋さんの完璧な逃げの数式を、ただそこに存在するだけの質量密度で粉々に壊している。世界の物理法則そのものを、あの人はたった一人で書き換えているんだ……!)
ハルの足元では、スーが俺の膝の上で野生の牙を剥き出しにしながら低く喉を鳴らした。その振動から俺は読み取った。見惚れている場合じゃない。幸田さんの巨大な密度に俺たちの推進力まで吸い寄せられている。あの負の渦を逆にハッキングしろ。
「応、スー……! この吸い込まれる巨大な負の流体渦を、俺たちのボイラーへ全部喰らい尽くしてやる!!」
俺はエンバランサ・ジャケットによる減圧安定を完璧に維持したまま、三十九号機の前面インテークにある磁気バルブを「全開」にハッキング解放。
幸田さんの超高密度の点へと猛烈に吸い寄せられていく、空間の浮遊マブイ残滓の濁流。それをカウル前面のインテークから直接エンジン心臓部へと強制吸入し、自身の白銀の核へと超高速で再充填する奥義――「後流再充填」を発動した。
最終第二ターンマーク。地元での予選トップ通過の看板を死守せんとするあおいが、転覆覚悟の超鋭角旋回を力ずくで仕掛けた。全身の細胞から限界以上の嫉妬マブイを注ぎ込んだ、水面を真っ二つに引き裂く氷の刃の旋回ライン。
しかし、幸田さんは一ミクロンも動じない。あおいがハンドルを捩じ込むその瞬間より前に、彼はすでに彼女の放つ全未来軌道を、その解析眼で完全に読み取っていた。
「阿波の跳ね馬」が、あおいの旋回カウルが描き出す最も鋭い懐の隙間へと、残酷なまでに最内の最短距離で滑り込んでいく。
二艇のカウルが完全に火花を散らして重なり合ったまま、栄光の電子ゴールラインを通過。
写真判定。
結果、一着はハナ差わずか五センチメートルの質量差で幸田文哉。あおいは無念の二着。そして、激しい三着争いの死線では、西野さんの爆炎の猛烈な追撃を最後の一伸びで振り切った俺と三十九号機が、滑り込みで三着を確保していた。
ピット裏へと帰還した俺は、カウルから這い出た瞬間、コンクリートの床へと激しく両膝をついた。下関の流体電算渦を全身で制御し続けた脳ニューロンの摩耗疲労が、これまでのどのレースよりも重く、肉体を圧殺していた。
「見事なハッキング戦だったよ、速水くん。……君の放った白銀の質量密度は、俺の負の後流の真空を一瞬の機転で吸収し、自身のボイラーの栄養へと変えてみせた。それはな、かつて君の技術の師である黒田くんが、命懸けで目指していた水上の到達境地の一つだよ」
還暦の王者がゆっくりと歩み寄り、俺へと静かに言葉をかけた。俺は濡れた床の上から、その伝説の解析眼を真っ直ぐに見つめ返した。
「幸田さん……次の優勝戦の第一マークでは、必ずあなたたちの三十センチ「前」を、俺とスーの白銀の風で走ってみせます!!」
「いい勝負師のツラの構えだ。……地元山口のホーム水面で、その白銀の針、もっと目視できなくなるまで深く研ぎ澄ましておきなさい」
王者が去っていったピット裏で、俺は両手を床についたまま、少し笑った。
次は一着を獲る。それだけだ。




