一点圧密穿孔
二〇二九年、五月上旬。ボートレース浜名湖の静まり返った鏡面を舞台にした、二艇の極限の模擬戦。
山口の黒田瑛人さんの鋭い号令とともに、電子大時計の純白の針が静かに動き出した。
一コースに入った岡山の絶対王者――河田元気さんが神速スリットから通過し、第一ターンマークへとハイドロエッジを鋭く旋回したその瞬間、恐るべき流体電算の怪奇現象が激しく勃発した。
第一マーク周辺の水壁が、網膜ディスプレイの中で一瞬にして完全消滅したのだ。
十二万五千の障属性出力をカウル前面から超高周波放射し、前方の流体分子を一瞬で完全中和して後方へと強制排気。自機の真後ろの領域に、流体揚力とマブイ伝導率が百分のゼロへと強制減衰した、巨大な流体真空空洞――「エアポケット・ボイド」を水上に完全形成したのだ。
「っ、前方の流体抵抗が完全に消えた!? 俺の一千マブイの粒子が、王者の作り出した真空に内側から強制吸引される……!」
四コースからカド捲りを狙って発進した俺――速水誠の三十九号機は、その黄金の真空空洞が産み出す凄まじい負圧へと、一瞬で容赦なく呑み込まれていった。
アマルガム・ペラが硬い汽水を掴むことができずに空中で激しく空回りし、超伝導エンジンが金属共振のエラー警告音を狂暴に跳ね上げる。
ハルの足元では、スーがケージの中から激しく鼻を鳴らし、低く深く唸り続けた。その唸りから俺は読み取った。――このままじゃ呑み込まれる。あの真空壁の継ぎ目を探せ。
「応、スー……! ここで怯んでたまるか、抉り拓け! 「一点圧密穿孔」!!」
俺は、エンバランサ・ジャケットの電磁磁場圧力を、コンソールからさらに一段階強制上昇させた。肺が物理的に押しつぶされそうな猛烈な肉体苦痛の代償と引き換えに、脳ニューロンの集中力を極限の臨界点まで研ぎ澄ましていく。
大内が仕込んでくれたハエトリグサ・パッチの逆流ナノ回路をあえて逆位相で作動させ、一千マブイの極限圧密パルスを、アマルガム・ペラの一ミクロンのエッジ先端へと超一点集束。河田さんの真空空洞が隠し持つ僅かなデータの継ぎ目へ、三十九号機は剥き出しの白銀のメスのように突き刺さり、猛烈に突入していった。
「……俺の、この絶対逃走の真空を、その薄い出力のままで本当に潜り抜けてきたというのか……!?」
四号艇の河田さんの透過解析眼の奥に、生まれて初めての激しい驚愕の電算パルスが走った。
揚力百分のゼロという、他艇を失速・沈没させる死の真空を、極限の密度を体内に纏った白銀の閃光が力ずくで切り裂き、バックストレッチへと真っ直ぐに突き抜けてきたのだ。
バックストレッチの長い直線。絶対王者の十二万五千対、俺の一千。実に百二十五倍の圧倒的な数値差が存在する二艇のカウルが、浜名湖のプールで、真横一線にピタリと並び立つ。
「届いた……! 河田さん、これが俺とスーが、福岡のあの三十センチの絶望の果てに、この浜名湖で見つけた本当の「魂の質量密度」です!!」
二艇は完全に並んだまま、地鳴りのようなモーター音を響かせてゴール板を同時に通過した。
写真判定。結果はハナ差。僅か数センチの差で、河田元気さんがインから辛うじて逃げ切っていた。
しかし、ピットへと帰還した絶対王者の顔には、先程までの余裕の笑みは、もう微塵も残されていなかった。その額からは、浜名湖の冷たいからっ風が吹き荒れる中でも珍しいほどに、激しい焦燥の汗がじっと滲み出ていた。
「速水誠。その脳ニューロンを焼き焦がすほどの異常な圧密を維持したまま、本番の三週間後、一コンマのブレもなく水上で完全にコントロールしきれるか?」
「やってみせます。次なるSGの本番では――あの福岡の三十センチ先で、チェッカーフラッグを力ずくで毟り取るのは、俺とスー、山口支部の看板です」
河田さんは一瞬、その透過解析眼を大きく見開き、それから、獰猛な本物の勝負師の笑みをその口角に浮かべた。
「面白い。本番の第一マークで、俺の黄金の絶対命令を力ずくで突き破れなかったその瞬間こそが――お前のレーサー生命の、正真正銘の完全な命日だ」
絶対王者が通路の闇へと静かに去っていった後の、夕暮れの浜名湖。
俺の肉体はボロボロに疲れ果て、エンバランサの激痛で感覚が麻痺しかけていた。それでも、白銀の瞳には、かつてない強固な自信の結晶が宿っていた。
不純物のない、たったの一千マブイ。それはもう、決して弱点ではない。十万マブイという量の暴力すらもその一点の密度で貫通する、速水誠だけの最強の白銀のメスへと、俺は昇華した。




