高圧エンバランサ
二〇二九年、四月下旬。ボートレース浜名湖。
最高峰SG「全日本機兵王座決定戦」での激闘を終えたばかりの俺――速水誠は、黒田師匠が長年修行水面として使ってきたこの浜名湖に降り立っていた。写真判定の末に優勝を攫っていった幸田文哉さんの、あの超高密度圧縮パルス「超局所内燃同期」の残像波形データが、最も激しい悔しさの炎と共に深く焼き付いていた。
「……スー、俺たちの白銀の一千マブイは、今までただ外部の空間へと派手に垂れ流しているだけの、あまりにも薄い霧だったんだ」
次なる絶対の目標は、地元・下関で開催される最高峰SG「衆望万魂祭」の完全制覇。俺は、あの王者が魅せた「圧倒的な密度」をこの肉体に体得するため、技術の師である黒田瑛人さんとともに、ここ浜名湖の過酷な汽水面へと降り立っていた。
「誠、ここは山口の穏やかな水面とは根本的に違う。浜名湖の重い粘性抵抗の環境デバフが、お前のその薄い一千マブイを一瞬で霧散させるぞ」
黒田さんの警告を受けながら、俺は大内が緊急調律してくれた新装備――「霊子圧密外骨格(高圧エンバランサ・ジャケット)」を、特注勝負服の上から強固に装着していた。
レーサー自身が外部へ放出しようとするマブイの出力を、内蔵された強力な電磁重力磁場によって内側へと百パーセント押し戻す、過酷な精神回路の電算矯正ギブスだ。この超高圧の磁気障壁を内部から突破して加速を掴むには、押し戻される磁場よりもさらに高い密度で、一千マブイを脳内の一点へと極限収束させるしかなかった。
「いくぞ誠!! マブイの圧密密度がミリ単位で足りなければ、俺の引き波の質量によって、お前の三十九号機は一瞬で冷たい水底へと沈むぞ!」
黒田さんが全速のスロットルを開けた瞬間、その漆黒のカウルから、十万マブイの出力を物理的な質量へと因果転換した超高密度重力場が、汽水面へと無慈悲に照射された。
黒田さんの機体が猛烈に滑走した後の平水面は、底の砂利が肉眼で見えるほど深く凹んだまま元に戻らない、絶対的な流体の死域へと一瞬で変貌を遂げた。
足元のスーが喉の奥から激しく唸った。その唸りが俺の足元を伝わってくる。分かってる、と俺は思った。
「分かってるよ、スー……! 逃げるな、黒田さんの産み出したデッドゾーンの中心へと、真っ正面から突っ込むぞ!!」
ドクン!! と、凄まじい肉体的衝撃波が俺の脳ニューロンを襲った。
高圧ジャケットが一千マブイを脳の内側へと力ずくで押し返し、浜名湖の重い粘性がカウル前面を激しく叩き、黒田さんの重力場が見るべき空間の視界をドロリと歪ませる。外部への行き場を完全に失った俺のマブイ粒子が、精神回路の体内で激しい臨界衝突を始めた。
(散らすな……霧にするな……! 幸田さんの、あの超高密度の点のように、一ミクロンの中心へとすべてを集束しろ!!)
マブログローブを嵌めた右手を、限界を超えて強く握りしめたその瞬間。
今まで薄い霧のように外部へ広角放射されていた一千マブイの粒子が、内側へと猛烈な引力によって一気に収束を開始した。俺の精神の奥底で、まるで太陽の核のように白熱した純白銀の「核」が、極限の密度を伴って完全に形成されたのだ。
「――熱い……!! 脳が、ボイラーが……溶けるほど熱いぞ、スー……!!」
総放出量は、不純物の一切ない「一千」のまま。しかし、パルスの体積は百分の一にまで極限圧縮され、一瞬に突き刺さるその貫通力は、通常の数万倍へと爆発的に跳ね上がっていた。三十九号機の剥き出しの排気口から、一ミクロンのブレもないレーザー状の極純白銀の光が、激しくその咆哮を噴き出した。
キィィィィィン――ッッッ!!!!
黒田さんの作り出した巨大な重力場の水壁を、誠の放つ白銀のメスが、鋭利なナイフのように一瞬で真っ二つに切り裂いた。
すべての過酷な試運転を終え、カウルを静かに脱いだ黒田瑛人さんが、ヘルメットのバイザーの奥で、わずかに満足そうに口角を上げた。
「十万マブイという単なる「量」の暴力に頼らない、本当の物理密度の門を、お前はハッキングによってようやく叩き割ったな、誠。お前がその体内で掴んだ白銀の重みこそが、次なるSGの第一マークで、世界の出力法則を完全に塗り替えるための、最強の楔となるぞ」




