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からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第3部:誠の試練編

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超局所内燃同期


二〇二九年、四月下旬。ボートレース福岡――SG「全日本機兵王座決定戦」、表彰式直後のピット裏。


 白銀の勝負服のヘルメットをゆっくりと脱いだ俺――速水誠は、自らのグローブの指先が、未だに小刻みに激しく震えていることに気がついた。


 時速二百キロを超える、あの脳細胞を焼き切るような極限の空中滑走戦からようやく解き放たれた肉体の反動であり、写真判定に持ち込まれたあの僅か数センチの「物理の極致」に対する、魂の底からの戦慄でもあった。


「……スー。幸田さんの霊子ボイラーの出力数値、本当に、たったの「八」だったのかな」


 隣の徳島支部のピットに帰還した幸田さんの愛機「阿波の跳ね馬」のシリンダーから今も細く漏れ出す、あの静謐な排気残滓の気配。それは、現代のどんな高性能な電算計器の数字を以てしても、決して測ることのできない異次元の質量だった。


「誠師匠……大内さんがたった今、全解析を終えたっす。幸田さんの最終周回における、本当のマブイ生波形データが出たっす……これ、マジのガチで見てほしいっす!」


 野田あかりが、興奮で手をガタガタと震わせながら、山口支部の作戦タブレットを俺の目の前へと差し出してきた。

 画面に表示された初期の出力数値は、どこまでも冷酷に「八」を示していた。しかし、大内が提示した詳細な波形グラフの集束密度は、常人の電算数式を遥かに超越した、異常極まる暗黒の領域を記録していたのだ。


 俺の一千マブイが美しい白銀の正弦波を描き、新見航平の二万七千が深紅の獰猛な稲妻を撒き散らす中、幸田さんの「八」という軌跡は、どんなに画面を拡大しても一本の鋭利な直線にしか見えない、超高密度の無限の連続体だった。


「数値上の表示は、確かに僅かに八だ。だがな、誠。その一刻みが持つ電算の質量は、実質八十万マブイ相当の出力に匹敵している」


 大内胤賢が、その目の下の深い隈をギラつかせ、技術者としての最大級の敬意を込めた低い声で呟いた。


「マブイの出力を、外部へ派手に放射して無駄遣いしていないんだ。あのハイドロカウルの固定ボルト一本にまで、マブイの熱量を内側へ完全に溜め込み、通常のレーサーの十万倍という異常な効率で、すべてをターン推進力へとダイレクトにコンパイルしている。あの人は、還暦に達するまでの長年のドブ板の経験だけで、世界の出力の法則を、その内側から力ずくで書き換えやがったんだ。――新奥義「超局所内燃同期クローズド・コンパイル」だ」


 手に入れたばかりの巨大な優勝カップを無造作にドスンとベンチに置いた幸田文哉さんが、こちらに向かってゆっくりと歩み寄ってきた。


「速水くん。マブイの単なる「量」や情念の熱に頼ってスロットルを全開にしているうちは、まだこの修羅の水上では、ただの青臭い若造だよ」


 節くれだった、数々の修羅場を潜り抜けてきた王者の右手が、俺の肩へとずしりと重く置かれた。


「自分自身の脳ニューロンと、機体の持つ電子頭脳、そして吹き抜ける風の流速……それらすべての物理法則のコードが水上で完全に溶け合って、摩擦ゼロの美しい結晶になった「絶対の一点」を、ハンドルの一コンマの角度で繊細に探す競技だ。その一瞬の静寂の領域に達した時だけ、俺の「八」は、世界の誰の数万マブイよりも重い質量となって、最内の隘路を鋭く差し穿つ」


 足元のスーが、幸田さんの方向を鋭く見つめながら、低く喉を鳴らした。俺には、その振動が「畏怖」だということが分かった気がした。


「幸田さん……次回の最高峰SGでは、俺たちが必ずあなたに勝ちます。あなたのあの無心の「八」よりも、さらに重く、さらに鋭い――俺たちだけの、白銀の「一千」の答えを、必ず次の水上で見つけてみせます!」


 幸田さんは、カウルの下から僅かに細めたその鋭い眼光の奥で、不敵にニヤリと笑った。


「いい勝負師の目になった。福岡の狂暴な那珂川のうねりと、あの数センチの絶望の壁は、君を少しだけ、本物のレーサーへと変調させたようだな」


 還暦の王者が静かに去っていったピット裏に、少し冷たい博多の潮風が、優しく通り抜けていった。

 速水誠の、初めての最高峰SGへの挑戦は――優勝戦二着、準優勝という名の、最も激しい悔しさをその胸に深く伴って、すべての幕を閉じた。

 しかし、俺の胸の霊子ボイラーへと確かに灯った、極純白銀の小さな火花は。安易に勝利を毟り取った時よりも遥かに熱く、そしてどこまでも静かに、どこまでも深く、燃え始めていた。


「誠師匠、いつまでも黄昏れてちゃダメっす! 機艇の片付けを早く終わらせて、山口に帰りましょう! 地元の下関で、皆が首を長ーーくして待ってるっすよ!」


 あかりのギャル全開の明るい声が、この一週間の張り詰めていた修羅の重圧を、博多湾の夜空へと一瞬で綺麗に霧散させてくれた。

 俺は、足元でフガフガと言っているスーの温かい生身の身体を、両腕で強く抱き上げた。スーの不格好な顔が、俺を見上げて鼻を一度だけ鳴らす。


「ああ、いこうぜ、スー。俺たちの、新しい滑走路へ」

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