第70話:独りゆく「孤狼」、そして修羅の頂へ
からくり競艇場において、水面以上にレーサーを翻弄し、あるいは味方となるのが「風」である。風は単なる空気の流れではない。大気中に漂う浮遊マブイを運び、機体の空力特性を劇的に変化させる支配因子である。
風向とその特性:
追い風: スタートラインに向かって吹く風。艇が押し出されるため「フライング(F)」の危険が高まる。旋回時には艇を外側へ流すため、インコースの逃げを難しくし、センターからの差しを誘発する。
向かい風(逆風): 正面から受ける風。機首を跳ね上げるため転覆の危険があるが、これを「揚力」として制御できれば、水面抵抗をゼロにする空中滑走が可能となる。
横風: 旋回半径を狂わせ、他艇との接触を誘発する。
風速とマブイの減衰:
風速が強まるほど機体制御は困難を極める。5m/sを超えればマブイ・グリップが剥がれやすくなり、10m/sを超えれば風圧そのものがマブイ出力を減衰させ、エンジンが悲鳴を上げる。この極限下では、出力よりも風を「いなす」練度が勝敗を分ける。
2029年4月24日。SG「マブイ開花賞」最終日。
博多の空は澄み渡り、風速2メートルの穏やかな追い風が吹いていた。しかし、ピットの空気は鉄を噛んだような重苦しさに満ちていた。
「……新見、ごめんな。最後まで、お前の隣に……風になりたかった……」
新見航平の相棒、キム・テヨン。彼は昨日の「痛みの共有」による過負荷で意識を失ったまま救急搬送されていた。新見の猛烈な加速の反動を、テヨンがすべて「避雷針」として引き受け、マブイ回路を焼き切ってしまったのだ。
テヨンを乗せた車が遠ざかるのを、誠とシロは静かに見送った。
「俺たちがハエトリグサでマブイを吸い取り、バランスを崩したせいだ……」
(誠、気にするな。あいつらは、こうなることを覚悟して走っていた。……見てみろ、新見の目を。あれは絶望した奴の目じゃない。何かが『点火』した奴の目だ)
周囲は「テヨンという盾を失った新見はもう終わりだ」と囁き合っていた。しかし、整備室に現れた新見の佇まいは昨日までとは別人だった。彼はテヨンとの接続用ケーブルを手に取ると、自らの首筋のポートに直接突き刺した。
「テヨン。お前が命がけで守ってくれたこの機体……俺一人のマブイだけで回しきってやる」
機体からの全負荷を脳で直接受ける、狂気の「リミッターカット」。27,000のマブイが深紅の光へと変色し、新見の機体を包み込む。相棒にも、自分自身の生存にすら頼らない。魂を燃料に焚べる真の「孤狼」が完成した瞬間だった。
「新見……お前、本当に死ぬ気か。そこまでして獲る勝冠に、何の意味があるたい」
大峰幸太郎が問いかけるが、新見の視線は誠を射抜いた。
「今日、俺を止めてみろ。止められなければ……俺がこの福岡の水面ごと、お前らを焼き尽くす」
誠は大内胤賢が最終調整を終えたタブレットを握り締めた。「……分かりました。新見さんの覚悟。俺のたった1,000のマブイですが、その重みごと、真っ向から受け止めます!」
ファンファーレが鳴り響く。数万の観衆が舟券を握りしめ、叫喚する。
【優勝戦 出走表】
大峰 幸太郎(佐賀): 「龍神の意地」。地脈と同期する絶対的安定感。
瓜生 俊樹(山口): 「無の死神」。マブイゼロのステルス。
新見 航平(福岡): 「狂気の孤狼」。リミッター解除の超加速。
速水 誠(山口): 「白銀のドリル」。大内製ブースターの奇跡。
守屋 あおい(山口): 「嫉妬の天女」。誠を囲う氷の属性。
幸田 文哉(徳島): 「レジェンド」。チルト3度の超高角。
ピットアウト。新見の3号機は制御を失ったかのような爆音を上げ、1コースの大峰に襲いかかる。
「追い風2メートル。誠、この風は新見を前へ押し出すぞ!」
(わかってる、シロ! 追い風をブレーキに変えて、一瞬の『静止』を作るんだ!)
大時計の針がゼロ秒へ。
1コース、大峰が龍の如き重圧でインを死守。2コース、瓜生が影となり消える。3コース、新見が深紅の残光を引いて突進。4コース、誠が白銀を震わせ、風を待つ。
「全機……全開ッ!!」
福岡の穏やかな追い風が、一瞬だけ激しく吹き抜けた。その微かな息吹を捉えた新見航平が、コンマ01という神の領域のスリットで飛び出した。
「焼き尽くせ……!! テヨン、見ていろ!!」
新見の絶叫が空を裂く。第1マーク。大峰の旋回が始まるより早く、深紅の閃光が福岡の水面を斜めに切り裂いていった。




