電算スリップストリーム
二〇二九年、四月下旬。ボートレース福岡――SG「全日本機兵王座決定戦」、最終優勝戦の一周目バックストレッチ。
チルト三・五度の圧倒的な空力制御によって、早くも強固な独走態勢を築きつつあった幸田文哉さんに対し、後方から三つの巨大な属性マブイ波動が狂暴に襲いかかった。
「幸田さん……今の修羅の庭を支配しているのは、俺たちが命を削って繋いだ痛みの電荷だ!!」
新見航平の放つ深紅の火花がカウル全体から激しく撒き散らされ、下関のあおいから飛んでくる遠隔嫉妬ノイズが視界を白く遮り、大峰幸太郎さんの黄金の質量障壁が、幸田さんの進路を物理的に圧殺しにかかる。三艇の化け物たちがトップの「阿波の跳ね馬」を完全に挟み撃ちにした、その一瞬だった。
幸田さんは、ハンドルを微塵も揺らさなかった。
「若造ども、マブイの絶対量や情念に頼りすぎるから、眼前の真実の水が見えなくなる。お前たちの放つ狂暴な殺気の乱流は、今の俺にとってはただの心地よい加速の追い風だよ」
幸田さんはチルト三・五度のハイドロ底面へと、三艇の放った凄まじい衝撃波のベクトルをあえて完全に受け止め、その流体反発エネルギーをターン推進力へと鮮やかに反転ハッキングしてみせたのだ。剛の暴力を、還暦の柔の空力制御によって完全に制し、敵の推進力さえも自らの旋回エネルギーへと強制変換する圧倒的な神技。
足元のスーが底面の拡張ポートから激しく鼻を鳴らした。その振動が俺の足元に伝わってくる。
「見事すぎる……三人が自らの引き波の質量に絡め取られて失速する中、幸田さんだけが摩擦ゼロで滑っていく……!」
その幸田さんの動きを、マブイの電算レーダーではなく、純粋な物理法則の弾道計算だけで完璧に捉えきっていたのが、四コースカドから追随する俺だった。
「見えた。幸田さんがそのエッジで切り拓いた、一筋の静かな真空の水面!」
俺は右腕の神経系への激痛に耐えながら、三十九号機のコックピットへ、緊急フレーム開放コードを全力で叩き込んだ。競技公認の緊急安全装置として認可されたそのコードは、「機体の生命に危険が及んだ場合」にのみ使用が許される。
「三十九号機、ごめん。全部脱いでくれ」
三十九号機の白銀のナノ装甲パネルが、すべての固定ボルトを磁気射出しながら、激しい電子音と共に水上へと次々とパージされていった。外装のハルを全て脱ぎ捨て、剥き出しの超伝導フレームと霊子ボイラーだけが残された、超軽量の「剥き出しの三十九号機」への命懸けの変態。
機体総重量を半分以下にまで削ぎ落とした俺の機体は、幸田さんの旋回直後に生まれた、空気抵抗もマブイ干渉ノイズも一瞬だけ完全にゼロになった流体真空ポケットへと、白銀のフレームを滑り込ませた。
「幸田さん!! 俺の一千のマブイのすべてを賭けて……その無心の先へと、連れて行きます!!」
「ハエトリグサ・パッチ」が、幸田さんの後流に生まれたその絶対真空を推進エネルギーとして強制逆流吸入。
極純白銀のアズール・フラッシュが静寂の平水面を鋭利なナイフで切り裂き、俺たちは二番手争いの化け物たちを一瞬で置き去りにして、ホームストレッチへと猛烈に躍り出た。
「山口の速水誠が、幸田の旋回の真後ろ一ミクロンの死角に完全に吸い付いた!! 電算スリップストリームだァァァッッッ!!!!」
実況の絶叫が耳に響く。
「これが、世界の最速が見せる視界……風も返し波も、全部が一つの輝く白銀の直線に見える……!」
「……面白い。一千マブイの純度だけで、俺の産み出した真空にここまで完璧に同期してくるとはな。速水くん、君なら俺ですら届かなかった真の風の正体を、この死線で掴めるかもしれない」
幸田さんが、バックミラー越しに俺の白銀の瞳を、一人の対等な勝負師の目で確かに捉え返した。
マブイの出力を捨てて物理の空力を極めた「伝説」と、他人の痛みをハッキングして一千の純度をメスへと変えた「若狼」。
二つの異なる白銀のカウルが、博多湾の満潮を真っ二つに割りながら、運命の最終第二ターンマークへと、時速二百キロのゼロ高度のまま一斉に吸い込まれていく。
俺たちの「無心の先」は、この第二ターンマークに、ある。




