無心の数式
二〇二九年、四月下旬。ボートレース福岡――SG「全日本機兵王座決定戦」、最終優勝戦。
全艇が激しくスリットラインへと突入したその瞬間だった。
大外六コースのダッシュ域から、完全水平の「白い矢」が放たれた。
「六号艇・幸田文哉、コンマゼロワン!! ジャストタッチスタートだァァァッッッ!!!!」
実況アナウンサーの絶叫が、福岡のスタンドを文字通り激しく揺るがす。
幸田さんの機体「阿波の跳ね馬」は、水面の狂暴な引き波に一切触れていなかった。
今年で還暦を迎える幸田文哉さんのコアマブイ数値は、驚くべきことに僅か「八」。通常のB1級レーサーですら水上での生存が危ういほどの極低出力だ。しかし、彼はその微かなマブイの火花を、カウルとの完全な対話にのみ百パーセント集束させていた。ハイドロステップのセッティングはチルト三・五度。大潮による底面への激しい吸引流を物理的に回避するため、正面からの向かい風を地面効果の反発クッションへと変調させ、機体を水面数ミリの真空の滑走路にホールドする、極限の空力セッティングだった。
「山口の若造ども、博多の一匹狼よ。マブイの絶対量や命を削る覚悟だけで、水上の最速を走れると思うなよ」
新見の深紅や大峰さんの黄金が水面に張り巡らせた巨大な質量障壁に対し、幸田さんは正面から力でぶつかるような愚行を一切選択しなかった。大潮のうねりが作った引き波の水壁の頂点を、限界のバンク角で鋭く切り裂きながら滑空する、三次元の極低空プレーン旋回。新見が自らの脳ニューロンを薪にして作り出した紅蓮の圧倒的な熱量すらも、幸田さんの持つ「速度」と「空力」の絶対法則の前には、完全に無力だった。
「新見くん、誠くん。……水上の最速に、マブイの無駄な熱はいらん。本当に必要なのは、風の流速と完全に一つになる「無心」の数式だ」
幸田さんがハンドルを捩じ込んだ瞬間、第一ターンマーク周辺に流体密度が激しく引き裂かれた、巨大な真空の負圧ポケットが発生した。
大峰さんの黄金の重力と新見の深紅が自らの引き波に足元を捕られて失速する中、幸田さんの六号艇だけが摩擦ゼロの完璧な風の道を滑空し、バックストレッチへと真っ先に抜け出していった。
足元のスーが幸田さんの航跡を鋭く見つめながら、一度だけ短く鼻を鳴らした。
「ああ……これが、現役レジェンドの、本物の極致か……!」
見えた。幸田さんの通った後にだけ、那珂川のうねりの環境ノイズが完全に消えている。あの真空の隙間を、俺たちのナノセンサーでハッキングして突き抜ける。
「文哉さん、ごめんなさい。今だけは、師匠の道を借ります」
一千のナノセンサーが幸田さんの航跡を瞬時に捕捉し、大峰さんの強固な重力圏を完全に回避しながら、俺たちは三番手へと瞬時に躍り出た。
しかし、すぐ前方、二番手には右腕の激痛に歯を食いしばって食らいついた、新見の禍々しい深紅のカウルが立ち塞がっていた。
「幸田さん、あんたはどこまでも高く、静かな壁だ。だけど新見さん、俺は山口支部の看板を背負って、ここで止まるわけにはいかないんだ!!」
大内が再コンパイルしてくれたハエトリグサ・パッチのナノ回路が、新見のカウルから漏れ出す紅蓮の排気残滓を推進エネルギーとして再吸収し、キィィィィンと鋭い再起動音を上げた。
那珂川の満潮のうねりが牙を剥く最終第二ターンマークへ、時速二百キロを超えたまま、三艇が一斉に吸い込まれていく。
無心の風、全てを焼き尽くす孤狼の深紅、そして因果を転換する白銀のメス。
この三者のうち、どれが栄光のゴール板を最初に越えるのか——那珂川は、まだその答えを水底に隠していた。




