第68話:沈黙の白銀、そして「誠の意志」を継ぐ者たち
ボートレースにおいて「潮」は、レーサーの技術やエンジンのパワーをも凌駕する絶対的な支配因子である。とりわけ淡水と海水が混ざり合い、複雑な潮流を生むボートレース福岡では、潮の読みを誤ることは敗北ではなく「事故」を意味する。
潮の種類とその特性:
大潮: 潮位差が最大になる時期。那珂川の淡水が海へ引き込まれる力が強く、第1マーク付近に「巨大な吸引の渦」を形成する。
小潮: 潮位差が小さく穏やかに見えるが、水の動きが停滞するため、先行艇が撒き散らした「マブイの残滓」が水面に留まり、後続艇の牙を削ぐ。
満潮: 水面が高くなり、消波装置を越えて「うねり」が直接ピット内まで押し寄せる。旋回時に艇が浮き上がりやすく、転覆の危険性が最大となる。
干潮: 静水面となるが、水深が浅くなることで「水底の反発マブイ」が機体に直接伝わり、激しい振動が発生する。
2029年4月23日。予選4日目、第11レース。
新見航平とキム・テヨンの「痛みの鎖」からマブイを強制吸取した瞬間、速水誠の39号機をかつてない異変が襲った。
「っ、身体が……重い!? シロ、何が起きたんだ!」
誠はコクピットで、心臓を直接握りつぶされるような圧迫感に悶絶した。大内胤賢が警告していた通り、試作パーツ『ハエトリグサ』が吸い込んだのは、新見とテヨンが長年の心中走法で蓄積させてきた「負のマブイ(痛み)」の残滓だった。他人から奪ったマブイは、誠の清廉な回路にとって文字通りの猛毒であった。
(誠、耐えろ! システムが拒絶反応を起こしているぞ!)
シロの悲鳴が響く。白銀の輝きを失った39号機は、大潮の猛烈な引き潮に流されるまま、那珂川の濁流の中で沈黙した。
だが、誠の決死の特攻は無駄ではなかった。彼が奪い取ったマブイは、新見とテヨンの完璧な同期を確実に破壊していた。
「誠! 後のうねりは、おいらが見てやるたい!」
誠が漂流する横を、三つの巨大な波動が突き抜けた。「佐賀の龍」大峰幸太郎である。彼は誠が作った一瞬の隙を見逃さず、封印していた地脈操作の奥義「龍神旋回」を解禁した。弟子の宮地明もまた、自身のビーグルと師匠の波動に雷を乗せ、新見の背後へと迫る。
そして、その死角から忍び寄る「無」の存在があった。
「誠。君が作った空白。僕が、一番効果的な場所で使わせてもらうよ」
瓜生俊樹。マブイ感知器に一切かからない「無」のステルス走法が、動揺した新見たちの精神の隙間を音もなく縫っていく。
「テヨン、マブイの供給が不安定だ! 接続が滑っている!」
逃げる新見航平の額に汗が流れる。生まれて初めての焦燥。誠にシステムを乱されたことで、テヨンからの供給が逆流し、制御チップが異常加熱を起こしていた。
「に……新見……。もう、バイパスが、溶けて……」
テヨンはマブイ欠乏により意識を失いかけていた。誠が吸い取ったのは、単なるエネルギーではなく、テヨンが新見を守るために張り巡らせていた「愛の防壁」そのものだったのだ。
大潮の引き波が最大となる最終周。宮地が叫び、新見の左舷――マブイ接続部の急所を狙って精密なハンドルを切った。激しい放電が火花となって散る。新見を庇おうとしたテヨンの膨らみを大峰が抑え込み、宮地が内を抉る。さらにその最内を、俊樹が「無」の刃で切り裂いた。
「……あ……」
暗闇の中で、誠はシロに精神を直接噛みつかれた。
(誠! 起きろ! お前のマブイは毒に負けるほど弱くない。今、お前の帰りを待っている奴らの声を思い出せ!)
その激痛が逆流した毒を焼き払った。大内が仕込んでいた真の機能『浄化』が発動。吸い込んだ毒が白銀の閃光となって放出される。
『39号機、再始動!!』
エンジンが吠え、流されていたボートが再び加速を始める。「あかり、真理子さん……遅くなって、ごめん」
誠の瞳には、かつてないほど澄み切った白銀の炎が宿っていた。
【第11レース結果】
1位:大峰 幸太郎(佐賀): 不屈の龍。減点7を跳ね除ける神速。
2位:瓜生 俊樹(山口): ステルスの極み。
3位:宮地 明(佐賀): 師匠を援護し、表彰台死守。
新見とテヨンはシステムダウンにより沈み、誠は最後尾から追い上げたものの着外。しかし、ピットに帰還した誠に、大峰が手を差し伸べた。
「誠……お前の無茶のおかげで、おいらたちは生き残ったばい。次からは独りで抱え込むな。おいたちは戦友たい」
遠くで気絶したテヨンを抱く新見。その瞳には、自分たちの絆を暴き、そして救ってしまった誠への複雑な感情が渦巻いていた。
福岡の予選が幕を閉じる。大潮は引き、次なる満潮の嵐が博多の街に近づいていた。




