第66話:暗転の那珂川、そして「未完」の予選
魂の色彩、運命の指向性――「マブイの属性」
からくり競艇において、レーサーが持つ「マブイ(魂)」には、その者の気質や宿命に由来する**「属性」**が存在する。機体のセッティングとは、この属性をいかに効率よく物理エネルギーへ変換するかのプロセスに他ならない。
下記に示すのは属性の一部
* 炎: 西野貴志に代表される属性。攻撃的で爆発的な推進力を生むが、制御を誤れば自機をも焼き尽くす諸刃の剣。
* 水・氷(アクア/フロスト): 守屋あおいや今川暢に見られる。嫉妬や静寂を冷気に変え、エンジンの熱を抑えたり、周囲のうねりを固めて平坦にする。
* 雷: 速水誠の「白銀」が持つ特性。瞬間的な加速と貫通力に優れるが、肉体への電気的負荷が激しい。
* 無・影(ヴォイド/シャドウ): 瓜生俊樹や新見航平が操る。存在感を消し、レーダーや他者のマブイ干渉を透過する。
* 地: 大峰幸太郎に見られる、水面そのものと同化し、重力すら操作する安定の属性。
これらの属性が水面で激突し、互いを打ち消し、あるいは増幅させることで、からくり競艇の戦局は万華鏡のように変化する。
2029年4月22日(日)。ボートレース福岡、予選3日目、14時30分。
地元の英雄・西野のフライングという衝撃がピットを凍り付かせた直後、それを追い払うかのような、不吉で激しいサイレンが博多の空に鳴り響いた。
突如として空は漆黒の雲に覆われ、那珂川の河口から吹き付ける逆風は一気に秒速10メートルを突破。満潮の波が逆流する海水とぶつかり合い、水面はもはや「うねり」を通り越した。からくり機体のカウルを一瞬で粉砕し、レーサーを冷たい奈落へ引きずり込む「牙」へと変貌したのだ。
『第8レース以降、天候不順および水面状況悪化のため、本日の競技は全て中止。順延といたします』
場内アナウンスが流れた瞬間、張り詰めていたピットの空気が一気に弛緩し、安堵と悔しさが入り混じった溜息が至る所で漏れた。大峰の減点、西野の失格……。そして、これから宮地明と新見・テヨンの孤狼コンビが激突するはずだった注目の第9レース。全てが「一度止まった時計」の中に閉じ込められた。
「……ちっ、那珂川の神様が『今はまだやるな』って言っとるばい。熱くなりすぎた頭ば冷やせってことか」
中止が決まり、白銀のカウルを外した佐賀の「龍」宮地明が、悔しそうに荒れる水面を睨みつけた。彼の「雷」属性のマブイが、未消化のエネルギーとして指先からパチパチと放電している。
一方で、新見航平とキム・テヨンの二人は、中止という劇的な裁定が下っても表情一つ変えなかった。テヨンが、新見の機体に深く差し込まれていたマブイ伝導ケーブルを慣れた手つきで静かに抜く。その瞬間、新見が短く、絞り出すような声で言った。
「……テヨン、明日まで体を休めておけ。回路を冷やせ」
「ああ、分かってるよ。……大丈夫だ、新見」
二人の「痛みの共有」は、この嵐による中断の間も続いているかのようだった。ケーブルを抜いた後も、テヨンの指先はわずかに震え、新見の瞳にはテヨンが肩代わりしている「負荷」への痛切な悔恨が滲んでいた。彼らの「影」属性のマブイは、嵐の暗雲と溶け合い、ピットの隅で不気味な静寂を保っていた。
ピットの片隅で、誠、あかり、真理子の3人は、雨風を避けるように身を寄せ合っていた。
「中止は残念っすけど、これで新見たちの『痛み』の解析をする時間が増えたっす! 災い転じて福となす、っすよ!」
あかりが努めて明るく声を上げ、スマホの解析画面を誠に見せた。そこには、新見の超高回転プロペラが空気を切り裂く際に発生する「マブイの空白」が記録されていた。真理子も深く頷く。
「誠くん、明日よ。水面が落ち着いたとしても、この休みで彼らのシンクロ率はもっと高まるはず。……大内さん、例の『ハエトリグサ』、明日までに間に合うの?」
薄暗い整備室の奥。モニターの青白い光に照らされた大内胤賢が、不敵な笑みを浮かべてチップを基板に押し込んだ。
「ああ。この嵐の静寂こそが、最高の調整時間になる。新見の『絶影』は、周囲のマブイを吸い込むことで成立している。ならば、その吸入孔を逆に利用して、過剰な情報を流し込んでやればいい」
大内は誠の方を向き、その眼鏡の奥の鋭い瞳を光らせた。
「誠、明日の第1マーク……君は『光』になって突っ込んではいけない。彼らが作り出す『影』の動きを追い、その影が飽和する一瞬の隙を突くんだ。名付けて、マブイ捕食回路『ハエトリグサ・システム』。君の白銀が、彼らの痛みを食い破る」
予選3日目が「未完」で終わったことにより、福岡の情勢はさらに複雑な色を帯びていた。
| レーサー | 現在の状況 | 明日への展望 |
| 速水 誠 | ドリーム戦1着の貯金あり。 | 中止により大内版「ブースター」を『ハエトリグサ』仕様へ再編。 |
| 大峰 幸太郎 | 減点7の重圧下。 | 「残り全勝」の猶予が一日延び、マブイの回復に充てる。 |
| 新見 & テヨン | 疲労が蓄積していた。 | 中止によりテヨンの『避雷針』としての肉体が休息を得て、万全に。 |
| 宮地 明 | 闘志が空転。 | 荒れた水面を好む佐賀の龍として、さらに攻撃的なセッティングへ。 |
誠は、激しく叩きつける雨の音を聞きながら、シロの白い毛並みを撫でた。
(誠。明日は今日以上の地獄になるぞ。だが、大内が言った通り、あいつらの『影』には必ず終わりがある。俺たちがその終点を見届けてやろう)
「ああ、シロ。新見さんもテヨンさんも、自分たちのために走ってる。だったら俺は、シロやみんな……そしてあいつら自身を『救う』ために走るよ」
博多の夜。嵐はさらに激しさを増し、那珂川の濁流が唸りを上げる。
順延された時計の針が再び動き出す時、それは誰かの絆が完成する瞬間か、それとも残酷に引き裂かれる瞬間か。
「マブイ開花賞」、運命の再開まで、あと15時間。




