地獄の満潮
二〇二九年、四月下旬。ボートレース福岡――SG「全日本機兵王座決定戦」、予選最終日の第一ターンマーク裏。
誠の放ったハエトリグサ・パッチによる強烈な精神汚染によって、三十九号機の白銀のハルが水面で一時的に沈黙するその一方。水上では、新見航平とキム・テヨンの双方向ニューラルリンクが、内側から致命的な崩壊を始めていた。
「テヨン、耐えろ!! あと半周クリアすれば、おいたちの勝ちだ……っ!」
新見が必死に叫ぶ。しかし、長年蓄積された電荷分散の物理的限界を完全に超えたテヨンの四号艇は、博多大潮の引き波の質量に、もう抗いきれなくなっていた。
「……新見、ごめん。俺のインテークの感覚が、完全に……」
テヨンのマブイパルスがスウッと途切れ、二人の機体を強固に繋いでいた青い隠密放電が、鋭い電子音の残振と共に博多のプールへ霧散した。博多の孤狼たちが誇った鉄の結束が、水上で完全に崩壊した瞬間だった。
「好機たい、宮地!! 誠が命を張って作ったこの差し道、一歩も譲るな!!」
博多の夜空に、雷鳴のような剛属性の咆哮が激しく響き渡った。二号艇の大峰幸太郎さんが、最も危険とされる最内の狭すぎる隘路へと、迷わずアマルガム・ペラのエッジを切り替えた。三百パーセントまで飽和した剛属性の黄金の重力障壁が那珂川の満潮うねりを一刀両断に叩き割り、失速した新見の懐へと最短距離の真ん中から鋭く突き刺さる。
「これが、泥をすすり風を喰らって、水上で泥臭く生き残ってきた、おいたち佐賀支部の本当の競艇たい!!」
大峰さんの背中に呼応し、弟子の宮地明さんが流属性の地脈パルスを全解放して外側からの他艇の追随を完全にブロック。旋回軌道を完全に失った新見の機体は、瞬く間に佐賀の強固な壁に包囲されていった。
その頃。精神汚染の闇の中で漂流を続けていた俺のヘルメットインカムへ、瓜生俊樹の澄んだ声が、アドホック通信のノイズを割って滑り込んできた。
「誠……僕の零属性の無響バッファデータを、君の電算回路に一時的に流し込むよ」
俊樹の持つ「マブイ数値ゼロ」という特異な波形が、俺の脳内を侵食していた暗黒のエラーログを瞬時に吸い取り、三十九号機の電子頭脳が強制電算初期化の息を吹き返した。
俺の網膜ディスプレイがパチパチと音を立てて再び白銀の光を結んだ時、そこには、黄金の大峰さんが那珂川のうねりを切り裂き、無音の瓜生が崩れゆく心中コンビを鮮やかに抜き去っていく光景が映し出されていた。
「みんな……俺たちが繋ぎ止めた道、全力で走ってくれてる……!」
ゴール板を真っ先に駆け抜けたのは、減点七という絶望の奈落から這い上がってきた大峰幸太郎さんだった。
チェッカーフラッグ。一着・大峰。二着・瓜生。三着・宮地。四着・速水誠。
ピットへと帰投した俺を、涙目になったあかりと真理子さんが駆け寄って迎えてくれた。
その一方、薄暗いコンクリート通路の奥では、新見航平が救護班のベッドに横たわるテヨンへと、焦燥を宿して駆け寄っていた。
「テヨン!! 目を開けろ、テヨン!!」
俺は脳神経の激痛の残振でフラフラと身体を揺らしながら、新見の広い背中へと一歩ずつ歩み寄った。
「新見さん。そんな、互いの命を電荷分散で削り合うような走りじゃ……いつか本当に、水上で彼を殺してしまう」
新見が弾かれたように振り返り、俺を鋭く睨みつけた。ただ、彼の濡れたグローブの手が三十九号機のカウルに残されたハエトリグサの白銀の微熱に触れた瞬間、その手が一瞬だけ止まった。
「さて、誠。他人のエラーノイズという最悪の毒を喰らって、君自身の脳ニューロンもまた、確実に一つ上の格の殻を破ったようだね」
山口支部の薄暗い整備室の奥から、大内胤賢が姿を現した。その電算端末の画面には、次なる決戦のグリッドが非情に展開されている。
大内の端末に、準優勝戦のグリッドが展開されていた。




