第64話:龍の失墜、そして福岡の「掟」
からくり競艇の世界において、レーサーは単なる個人として戦っているわけではない。彼らは各都道府県ごとに組織された「支部」に所属し、その看板を背負って水面へ出る。
支部の役割:
同じ支部のレーサーたちは「身内」であり、練習を共にし、機体調整のノウハウを共有する。レースにおいても、同支部の先輩が後輩をガードしたり、連携して他支部の独走を阻む「ライン」を組むことが暗黙の了解となっている。
主要支部の特性:
福岡支部: 「修羅の国」と称される最大派閥。西野の「爆炎」に代表される、攻撃的で荒々しいスタイルが特徴。
佐賀支部: 大峰を筆頭とする「龍」の系譜。少数精鋭ながら、機体との深い精神同調を得意とする。
山口支部: 誠やあおいが所属。近年、大内の再編技術により「科学とマブイの融合」で急速に台頭している。
対抗意識:
SG(最高峰レース)では、この「支部対抗」の図式が色濃くなる。地元の支部が負けることは、その地域のマブイの格が下がることを意味し、ファンもまた地元の支部に魂を託して叫ぶのである。
2029年4月22日。ボートレース福岡、SG「マブイ開花賞」予選3日目。
『大峰幸太郎。第1マークにおける斜行、および過度なマブイ干渉により、不良航法を適用。減点7とします。』
ピット裏に冷徹なアナウンスが響き渡り、全レーサーの手が止まった。「佐賀の龍」と称される人格者・大峰が、あからさまな減点宣告を受けたのだ。
事の発端は第10R。強烈なうねりでバランスを崩した弟子のリサを救うため、大峰は自らのマブイを飽和状態まで膨張させ、後続艇を「圧力」で弾き飛ばす壁となった。リサは救われたが、大峰の走りはルールを逸脱したと判定されたのだ。
「大峰! きさん、何ばしよっとか! おいたちの勝負に、つまらん減点ば持ち込むな!!」
福岡の雄・西野貴志が、大峰の胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄った。西野の怒りは失望ではない。最強のライバルと、優勝戦という最高の舞台でぶつかれなくなることへの、裏返しの恐怖だった。
大峰は静かにその手を払い、鋭い眼光を取り戻した。「西野、おいを誰と思っとる。……減点されても、残りの全レース1着で獲れば準優には残れるばい。ここからが、佐賀支部の意地たい」
誠はこの光景を整備室の影から見ていた。「自分を犠牲にしてまで、支部を守る……」
(誠、見てみろ、あのムネリンを。主人の窮地だってのに、尻尾を振って『ここからが本番だ』って顔をしてるぞ)
シロの言う通り、大峰の足元では愛犬が不敵に笑っていた。大峰の周囲には、狂気的なまでの青白いマブイが集中し始めていた。
そこへ、偵察から戻ったあかりと真理子が駆け込んできた。
「誠師匠! 新見さんとテヨンさんの秘密がわかったっす! あれは『マブイの共有』じゃなくて……『痛みの共有』をしてるみたいっす!」
真理子が真剣な面持ちで補足する。「テヨンくんが受ける水面の衝撃や過負荷を、新見くんが半分肩代わりしている。二人で一人の機工生命体のように動いているのよ」
孤狼コンビが圧倒的なのは、互いの神経系をマブイで繋ぎ、負荷を分散させるという、命を削る禁忌の連携ゆえであった。
「誠。大峰さんが沈む可能性がある以上、予選トップ通過は君が狙うべきだ」
大内胤賢が現れ、39号機の内部構成図を表示した。
「新見の絶影、大峰の狂気。これらを越えるには、今の出力では足りない。……増幅器の『封印』を一段階解くよ。増幅倍率は15倍。ただし、君の右腕に直接マブイのバイパスを刺す。激痛が走るが、耐えられるか?」
誠は遠くで機体を磨き直す大峰の背中を見た。
「やってください、大内さん。……俺も、山口支部の『看板』を背負ってここにいるんだ。誰にも恥じない走りをしたい」
(誠、お前の右腕が焦げ付いても、俺がその意志を繋ぎ止めてやる。……いこうぜ、白銀の暴走特急!)
シロが咆哮し、誠の右腕に大内の接続端子が深く突き刺さった。青白い電光が福岡のピットを切り裂く。
崖っぷちの龍、痛みを分かち合う孤狼、そして封印を解いた白銀。
福岡の水面は今、神話の領域へと突入しようとしていた。




