ハエトリグサ・プログラム
二〇二九年、四月下旬。ボートレース福岡――SG「全日本機兵王座決定戦」、予選四日目。
前夜の大嵐が嘘のように去った博多の汽水面は、鏡のように穏やかに凪ぎ返っていた。しかし、ピット裏に漂う全レーサーたちの殺気は、昨日よりも一層鋭く張り詰めていた。
「風がなか……。ばってん、こいが福岡の一番怖かたい」
山口支部の隣のケージで、大峰幸太郎さんが低く呟く。本日は大潮。表面上は完全な静水面に見えても、那珂川の河口水流と博多湾の外洋質量が水面下で激しくせめぎ合い、第一ターンマーク付近には目に見えない巨大な流体吸引力が発生していたのだ。
「テヨン、過負荷はすべて俺が担え」
「お前は最短最速の死線を走れ、新見」
福岡の新星――新見航平とキム・テヨンの二人が、静かに博多の水面へと滑り出す。
スリットラインを越えた瞬間、テヨンが『双方向ニューラルリンク』を最大限界まで駆動。電荷分散による超高圧の逆噴射流体スタビライズを海中へと一気に噴射した。その電算支点を中心軸にして、新見の駆る四号艇が一ミクロンのブレもなく、まるで氷上のスケーターのように最小半径のインコースで第一マークを旋回していく。
「誠、出力を外に放つんじゃない。新見の放つ影の航跡を、インテークへそのまま吸い込め」
ヘルメットのインカムから、大内胤賢の張り詰めた声が響く。大内が三十九号機の電子頭脳へと緊急装填した特製パッチ――「ハエトリグサ・プログラム」。精属性のメスを逆変調の罠として再コンパイルしたものだ。
俺はあえてスロットルレバーを僅かに緩め、霊子ボイラーの初期出力を最小限に抑え込んだ。三十九号機はまるで水上で死んだように静かだが、カウル前面に開いたインテークは、飢えた獣の罠のように不気味にその口を開いている。大潮のうねりエネルギーと、新見たちが撒き散らす影属性マブイの排気残滓を、三十九号機のハルは強欲に取り込み始めた。
足元のスーが激しい同期パルスを放ちながら低く唸り続けた。その喉の振動が右手に伝わってくる。俺は確かめるように右手のグローブを握りしめた。
「応、スー……行くぞ! ハエトリグサ・パッチ、強制起動!!」
第一ターンマーク。新見が完璧な「絶影旋回」に入ろうとしたその瞬間、三十九号機の白銀の機体が、新見のカウルが描き出す影の座標へと完全に重なった。
ドクン!! と、十五倍圧の強烈な衝撃波が俺の右腕に突き刺さり、前面インテークが極純白銀の巨光を上げて激しく発光する。新見とテヨンをリアルタイムで繋ぐ双方向リンクのデータストリームから、俺たちは過負荷の熱量を強引に毟り取り、吸入し始めたのだ。
「おいたちの隠密同期が、内側から強制ハッキングされて……マブイの過負荷が、逆に脳内へ逆流する!?」
三号艇のテヨンが電算回線の中で激しく悲鳴を上げた。電荷分散の調律データを一瞬にして失った新見の脳ニューロンに、超高回転セッティングが生み出す膨大なオーバーロードがダイレクトに突き刺さる。寸分の狂いもなかった絶影旋回のハイドロラインが瞬時に制御を失い、外側へと大きく流れていった。
そして、新見たちのバイパスから奪い取った莫大な過負荷エネルギーが、大内のブースター回路で再編された瞬間――俺の一千の白銀マブイの出力が、爆発的に跳ね上がった。
世界が、急に遠くまで見えた気がした。一万だ。今の俺は一万マブイで走っている。
これは救うことなのか、奪うことなのか。その問いが一瞬頭をよぎった。でも今は答えを出す時間がない。
「これが……二人だけで背負っていた、命を削る痛みの重さか……重すぎるぞ、新見さん!!」
奥歯を食いしばって神経伝導の激痛に耐えながら、俺は三十九号機の白銀のメスを、誰もいない最内の水底へと猛烈に捩じ込んだ。
しかしそこへ、減点七という絶望の崖っぷちから這い上がってきた大峰幸太郎さんと、かねてから師弟として知られる宮地明さんの佐賀コンビが、三百パーセントまで飽和させた極大マブイを以て、上空から押し潰すような全速まくりを仕掛けてきたのだ。
四つの支部の意地と看板が、日本一狭い福岡の第一マークの死線で、真横一線に激突する。プールの中央は今、完全なる混沌のサバイバル爆心地と化していた。
山口支部のピット裏、作戦電算モニターをじっと睨みつける守屋あおいの白い手が、深い不安と強烈な独占欲のパルスに激しく震えながら、自身の胸元を固く握り締めていた。
「……誠くん。水上でバラバラに壊れてしまうのは、機体じゃなくて、あなたの脳のニューロンよ……?」
あおいの白い手が、震えていた。




