孤狼の透過
二〇二九年、四月下旬。ボートレース福岡――SG「全日本機兵王座決定戦」、予選二日目。
俺――速水誠の予選第十二レースは、夕刻に組まれていた。その前の第十レース、俺はピット裏のモニターから、新見航平の走りを食い入るように見つめていた。
「風の隙間を滑らかに滑るのは若者の特権だ。だがな、誠くん。福岡の本当の恐ろしさは……目に見える風でも波でもない。水底にある、完全なる沈黙にあるんだよ」
一コースに重厚に構える「福岡の守護神」――今川暢さん。公称マブイ十万。しかしその巨光は派手なエフェクトを一切放たない。彼のカウルが通過する水域だけ、荒れ狂う那珂川の満潮うねりが、鏡面のように静まり返っていくのだ。鎮属性の「面の防御」。博多の鉄人の異名を持つ所以だ。
だが、その絶対防衛線に対し、孤狼コンビが動いた。スタートと同時に、三号艇のキム・テヨンがスリットラインから獰猛に牙を剥く。
「新見、道は俺が作ったぜ! 鉄人をその電算の玉座から引きずり下ろせ!!」
テヨンの瞞属性を帯びた弾丸旋回が今川さんの鎮圧フィールドへと強引に潜り込み、消波された流体うねりを逆方向に増幅させた。
今川さんの描くべき旋回軌道に、コンマ数秒の揺らぎが生じた。それを新見は待っていたのではなく、予測して先回りしていたのだ。キムが今川を揺さぶる前から、新見はすでに差し込む角度を決めていた。
「……隙あり、今川さん」
三コースから、新見航平の影属性が静かに、冷徹に動いた。外付けマブイ二万七千の出力を、プロペラから放つ超高回転マイクロウェーブへと一点集中させ、水面下の流体分子を事前に完全透過ハッキング。
水面に一切の航跡を残さない、無音の超高速回転。今川さんの膨らんだ引き波の僅かな分子の継ぎ目へと、新見の機体は音もなく滑り込んだ。力と力のぶつかり合いではない。流体数式の最適解を水面に冷徹に描き出す、完全なる透過差し切り――「絶影旋回」だ。モニターの中で、俺は動けなかった。
(昨日の俺の「風の滑走路」は、大内のスタビライザーや幸田さんの極意があったからこそできた、借り物のハッキングだ。だけど新見さんは、外部のコードに頼らず、たった一人でこの修羅の福岡の答えを出している……!)
俺は自分の右手を見た。プラグレンチを握る手が、静かに熱くなっていた。
足元のスーが低く唸り続けている。その喉の振動が、俺の右手に伝わってきた。
「ああ、分かっているよ、スー……! 次は俺たちの番だ!」
予選第十レースの結果は、新見航平の鮮やかなる絶影差し切り勝ち。
ピットへと帰還した新見と俺の視線が、濡れたコンクリートの上で真っ正面から激突した。新見は一言も発さず、ただ俺の心臓を射抜くような、鋭く冷たい視線だけを真っ直ぐに向けてきた。その視線が何を言っているかは、俺には分かった。ただし、それは俺が受け取ったものだ。新見が何を考えていたかは、俺には分からない。
「誠、今の新見の絶影旋回の電算データだ」
山口支部の専用整備室の陰から大内胤賢が静かに現れ、電算端末の画面を提示した。その目の下の隈は、さらに深くギラついている。
「彼のプロペラの表面には、マブイの周波数を流体へと完全透過させるナノスリットの溝が精緻に彫られている。真っ正面から対抗するには、「ロスト・ブースター」の圧縮回路を、君の一千の白銀マブイを一ミクロン単位のレーザー状に集束させる精密バイパス――「アマルガム・スライサー」へとシステムを再コンパイルする必要がある」
「分かった。やってくれ」
俺は短く答えた。だが頭の中では、まだ新見の「絶影旋回」の軌跡が回り続けていた。借り物じゃない本物の刃。それが今、俺に一番足りないものだ。
夜、今川さんが整備室の前を通りかかった。俺と目が合うと、一度だけ静かに頷いた。それだけだった。鉄人の言葉は少ない。でも、その頷きは「次で会おう」という意味だと俺は受け取った。
スーが「フガッ」と一度鳴いた。




