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からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第3部:誠の試練編

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風の滑走路

二〇二九年、四月下旬。SG「全日本機兵王座決定戦」、二日目。


 予選第十二レース。番組表が電算掲示板へと展開された瞬間、俺――速水誠は息を呑んだ。三コース・速水誠。五コース・新見航平。六コース・キム・テヨン。

 同じレースに、三人が並んでいた。


「誠。キムの(まん)属性が先行する。あれは視覚ジャミングだ。網膜ディスプレイが正常に機能しなくなる前に、ロスト・スタビライザーの電算を感覚側へ切り替えておけ」


 大内が耳打ちした。俺は頷いた。だが、頭の中では別のことを考えていた。

 昨夜、スーが整備室の隅でフガフガと低い息を吐きながら、新見の猟犬型デバイスが残していった超高周波の残滓を、一晩中鼻先で追い続けていた。スーが何かを嗅ぎ分けていた。俺には分からなかった。でも、その鼻先が向いていた方向だけを、俺は覚えておいた。


 コックピットに沈み込む。インカムからスーの呼吸音が届く。フガ、フガ。いつも通りの、不格好で温かい息だ。


「スー。俺のディスプレイが真っ暗になっても、お前の鼻が向いた方向だけは信じる。それだけでいい」


 スーが「フンッ」と一度だけ強く鼻を鳴らした。


「――大時計、始動ッ!!」


 白針がゼロを刻んだ瞬間、六コースのキム・テヨンが瞞属性のナノ粒子を水面へと一斉に散布した。博多の湿った空気の中で、光学遮断粒子が靄のように広がり、カクテル光線が乱反射して俺の網膜ディスプレイが激しくノイズを帯び始める。


 第一マーク手前で、視界が半分消えた。


(落ち着け。ディスプレイを捨てる。スーの息だけを聴け)


 那珂川のうねりが第一マーク付近で盛り上がる。俺はロスト・スタビライザーの電算モードを切り、感覚制御へと手動で切り替えた。ハイドロ底面がうねりを感じ取る。スーの呼吸音が変わった。フガ、フガ、フガ、と三連続で。


 それが何を意味するかは分からない。でも俺の右手が、反射的にエッジを左舷側へと微修正していた。


 次の瞬間だった。

 五コースから発進した新見航平の「絶影旋回」が、キムの光学ジャミングによって生まれた死角から、音もなく最内へと滑り込んできた。那珂川のうねりの分子構造を透過ハッキングした影属性の機体が、水面の抵抗をゼロに近づけながら、超高回転ペラで真空の滑走路を自らの機体の直下に強制生成する。


 他の艇ならそのまま差し切られて終わりだ。だが、スーの三連続の鼻息が俺に左舷修正を促したことで、三十九号機のエッジが新見の真空滑走路の縁、わずか数ミリの境界線に重なっていた。


(まずい……重なってる。このまま行けば、新見の真空に引き込まれる)


 引き込まれる、なら。 


(引き込まれた先に、出口を作れ)


 俺はアマルガム・ペラの回転を一瞬だけ逆相へと切り替え、新見の真空滑走路の内側へと、白銀のエッジを強引にねじ込んだ。相手の真空の道に乗りながら、その道の終点で俺だけが出口を開く。真空の楔を相手の真空の中に撃ち込む、二重の真空ハッキングだ。


「っ……貴様、俺の絶影の内側に入ったのか!」


 新見の声が、インカムを通じてではなく、隣の機体から直接届いた気がした。それほど近かった。

 スーが「フガッ!!」と力強く鳴いた。


 第一ターンマークを抜けた瞬間、俺の視界が戻った。キムのジャミングが、大内の電算から飛んできたカウンターパルスによって相殺されたのだ。

 前方には新見の機体。後ろを振り向かなくても、キムが詰めてきているのは分かる。


「誠! 残り一周、新見の影に追いつけ。那珂川が最後にもう一度うねる!!」


 大内の声。俺はスタビライザーを最大出力で再起動させた。

 ホームストレッチの直線。うねりが来た。他艇がブレる。三十九号機だけがブレなかった。その数センチの差が、第二ターンマークで新見との距離を詰めた。


 ゴール前の直線、並走。新見の影属性が、俺の機体の影を食らおうとしている。だが、影が食らえるのは光がある場所だけだ。 


 俺の蒼白の閃光は、消えない。

 チェッカーフラッグ。一着・速水誠。二着・新見航平。三着・キム・テヨン。


 ピットへ帰投し、コックピットから出た俺の腕の中に、スーが勢いよく飛び込んできた。フガフガと興奮した息を吐きながら、俺の顎を不器用に舐める。


「ありがとな、スー。お前の鼻なしじゃ、あの左舷修正はなかった」


 スーが「フンッ」と一度だけ得意げに鼻を鳴らし、俺の腕の中で丸まった。

 整備室に戻ると、大内が電算端末から顔を上げずに言った。


「新見の絶影の内側に入るという発想は、計算の外だった。次は奴も対策を用意してくる」


「分かってる」


 俺は三十九号機のカウルに手を置いた。那珂川のうねりの余韻が、ハルの振動として掌に残っていた。

 新見航平。あいつはまだ、本当の絶影を見せていない。


 俺の端末が一度だけ明滅した。下関からあおいの通信パルスだった。


『一着確認。……よかった。帰ってきたら話がある』


 「話がある」という四文字が、「おめでとう」よりもずっと重く感じた。何の話かは分からない。でも、スーが端末の画面を一度だけ鼻先でつついて、そのまま目を閉じた。


 福岡の夜空に、那珂川の潮風が吹き抜けていく。明日も、新見がいる。

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