孤狼のハッキング
二〇二九年、四月下旬。ボートレース福岡――最高峰SG「全日本機兵王座決定戦」の前検日。
ホーム下関での幸田兄弟とのチルト三度決戦、そして嫉妬冷却の死闘を辛うじて制した俺――速水誠は、最高峰SG特有の極限の緊張感をその胸に抱きながら、博多のピットへと力強く足を踏み入れた。
第8話で初めて俺がプロ一着を取った那珂川の水面だ。あの時と同じ博多の潮風を胸に受けながら、俺は三十九号機のハルを水面に降ろした。
「群れなきゃ走れん山口のガキ共に、福岡のうねりは越えられんばい」
ピットの最北端、福岡支部の西野貴志さん率いる地元勢力から完全に距離を置き、ただ一人静かに私物プロペラを鋭い眼光で叩き続けている男がいた。
電算データ掲示板カササギにおいて「孤狼」と恐れられる福岡の新星――新見航平。既存の組織やラインに一切属さない完全なる一匹狼だ。外付けマブイ二万七千を超高回転セッティングへと一点集中させた【影属性】の使い手で、福岡特有の複雑なうねりの流体分子構造を、ペラから放つ超高周波マイクロウェーブによって事前に透過ハッキングする「絶影旋回」をその武器に誇っていた。なぜ群れを嫌うのか、その理由を知る者は誰もいなかった。
「一発目の試運転で、たっぷり歓迎してやろうか?」
新見のすぐ隣で不敵に口角を上げて笑うのは、唯一の同門の相棒――キム・テヨン。周囲の機艇が展開する索敵ソナーやジャイロの視神経を内側から狂わせる、光学遮断のナノ粒子を水面へ撒き散らす【瞞属性】の使い手だ。
最初の試運転を終え、三十九号機をピットへ引き上げた瞬間、俺の腕の中でスーが低い威嚇音を喉の奥から鳴らし始めた。新見の超高回転ペラから放たれる異常なハッキング波形を、スーの野生のセンサーが敏感に察知しているのだ。スーが新見を睨みながら低く唸り続けている。俺もスーと同じ気持ちだった。
「分かってるよ、スー。あいつらはこの福岡の狂暴な那珂川のうねりを、完全に味方につけてハッキングしているんだ」
薄暗い山口支部の専用整備室の奥から、大内胤賢がカチカチと電子足音を響かせて現れた。その目の下には、前橋と唐津での電算解析の疲労が色濃く残る、深い隈が刻まれていた。あおいは下関に残ってホーム戦の整備に入っている。今夜ここにいるのは、俺と大内とあかり、そして真理子さんだ。
「誠。福岡のうねりは、僕の氷極の数式を以てしても完全な計算外となる巨大な環境ノイズだ。「ロスト・ブースター」を、那珂川のうねりがもたらす反発の質量を瞬時に相殺する、流体姿勢制御の防御プログラムへと緊急書き換えパッチを当てる必要がある」
「なーんか、初日からピリピリしてるっすね! 師匠、顔がマジで怖いっすよ! 真理子さん、偵察がてら売店の明太子おにぎり食べに行きましょう!」
野田あかりの声が、一瞬にして整備室の重苦しい空気を霧散させた。野田真理子さんが苦笑いしながら、俺の背中をポンと優しく叩く。
「少し肩の力を抜いたほうが、福岡の気まぐれな波頭には滑らかに乗れるかもしれないわよ。私たちの「野田同盟」も、後ろでしっかり控えてるんだから」
夕刻。前検日のすべての厳しい電算検査が終了し、最高峰SGの開幕を告げる高らかなファンファーレが博多の夜空に鳴り響いた。
那珂川から激しく吹き抜ける博多の潮風の中、俺はスーの温かい生身の身体を、強く抱き上げた。スーの不細工な顔が、夕闇に染まる博多の平水面を鋭く睨みつけ、低い鼻息をフガフガと力強く鳴らす。
「行くぞ、スー。ここを不壊の結晶で越えなきゃ、俺たちの本当の春は来ない」
全国の化け物たちのマブイが博多の夜空に乱舞する中、速水誠と三十九号機の新たなるハッキング旋回が、今まさにその激しい幕を開けようとしていた。




