三十一秒目の加速
二〇二九年、四月下旬。ボートレース下関――「下関リベンジ戦」、最終優勝戦の最終周回。
「あと十秒で内部のナノ回路が焼き切れて、霊子ボイラーが粉々に砕けるぞ、誠!!」
ヘルメットのインカムを通じて、ピット裏の大内からの限界警告パルスが鼓膜へと突き刺さる。
三十九号機のカウルは、左舷に幸田兄弟のチルト三度が描き出す「伝説の直線」の質量、右舷にはあおいの放つ「紅蓮の旋回」の圧力に完全に挟み込まれ、時速二百二十キロを超える絶対死線の水面を猛烈に滑走していた。大内が錬成した「ロスト・ブースター」の真鍮ギヤが激しい摩擦熱によって白熱化し、ボイラーの排気口からは霊子蒸気が断末魔の悲鳴のように激しく噴き出している。
内部温度が完全な臨界点を突破した瞬間、足元のスーの生命パルスが、俺の神経系へと激しい遮断エラーを無理やり送り込んできた。網膜ディスプレイの隅で、真っ赤な警告ログが冷酷にカウントダウンを明滅させる。
【致命的エラー:システム完全爆発まで残り5秒。4……3……!】
その瞬間、隣を走るあおいのインカム回線から、狂暴なまでの嫉妬パルスがプール全体へと放たれた。
「誠くん……私の隣を走るのが、そんなに嫌なの……!?」
絶対零度の冷気を含んだ天女の氷結引き波が、三十九号機の右舷ハルを獰猛に襲う。通常ならエッジが凍りついてそのまま水底へと沈むデバフ攻撃だ。だが、今の俺には、その呪いの引き波こそが、唯一の逆転の航路に見えた。
俺はロスト・ブースターの排熱バイパスシャッターを、力ずくで強引にこじ開けた。
「これだ……あおいの怒りは、あまりにも冷たく、そして重い!!」
あおいの放った零下の氷結引き波を、真空還流弁のインテークから内部の熱交換器へと強引に吸入バイパスさせる。千度を超えたブースターの致命的な熱量を、零下の嫉妬パルスを含んだ海水飛沫によって一気に放熱する――極限の熱力学的逆ハッキング、新奥義「嫉妬冷却」!!
ブシュゥゥゥゥッッッ!!
三十九号機の激しいノッキングが、嘘のようにピタリと止まった。真鍮のギヤが急速冷却され、超高圧の推進力を維持したまま、クランク軸が再び鋭く回転を再開する。
「三十秒を経過……熱膨張波形が完全に安定しているだと!?」
インカムの向こうで、大内の電算計算が驚愕のトーンへと変わる。
俺と三十九号機は、前人未到の――「三十一秒目の加速」へと突入したのだ。
最終第二ターンマーク。幸田文哉さんがチルト三度で激しく刻んだ着水の瞬間、流体密度が一瞬だけ完全に希薄になった、水面下の真空の負圧ポケット。俺は文哉さんから教わった極意の通り、一千個の極小ナノセンサーによって、その水面の継ぎ目を完璧に捉え、ダイヤモンドのエッジを突き立てていた。
「野田同盟、大内、あおい! 全員の想いを、この一瞬の隙間に!!」
全員の力を一点に集めて、幸田の作った流体の継ぎ目を切り裂く。アマルガム・ペラのエッジが幸田兄弟の作り出した巨大な流体の渦の継ぎ目を、鋭利なナイフのように真っ二つに切り裂き、三十九号機の蒼白の閃光が、栄光のゴールラインを最初に駆け抜けた。
チェッカーフラッグ。一着・速水誠。二着・幸田文哉。三着・守屋あおい。
一着だ。嫉妬冷却で、勝った。
「負けたよ。あおいちゃんの執念の冷気を熱交換システムに転用して、ブースターの寿命をその場でハッキングするとはな。最高にキレた、極上のプレーン戦だった」
文哉さんが俺の手を強く握り締めてくれた。
しかし、三着に沈んだあおいの瞳には、自らの冷却データとして利用されたことによって、さらに深化した絶対的な執着の火が、妖しく、美しく灯っていた。
「誠くん……私の怒りをそんな風にシステムに使うなんて。もう一生、私から逃げられないって、自分で自分の首を絞めたのと同じよ……?」
足元のスーが、ケージの奥へとフイッと頭を引っ込めながら「フンッ」と一度だけ鼻を鳴らした。明確に「自業自得だ、知らんぞ」という返事だった。
その熱が冷めぬピット裏、全レーサーの作戦電算端末が一斉に、不気味な電子アラートを鳴り響かせた。
「福岡たい!! ついに俺たちの庭に、全国の、いや世界の化け物どもが集まるばい!!」
福岡支部の西野貴志さんが、自身の爆炎のマブイを散らしながら激しく咆哮した。
「誠くん。福岡のあの狭い一マーク……私の天女が舞うには、最高の舞台だと思わない?」
俺は大内から授かったブースターの、未だ消えない熱い残熱を右手に感じながら、強く頷いた。




