三十秒のロスト・ブースター
二〇二九年、四月下旬。
前日の予選において、徳島支部から突如として襲来した「チルト三度」の圧倒的な直線伸び足に完全無欠の完敗を喫した翌日。我がホーム、ボートレース下関の山口支部専用整備室には、金属が激しく擦れる音と、重苦しい沈黙だけがドロリと流れていた。
野田あかりと野田真理子さんの二人が、三十九号機の霊子ボイラーの前で必死に調整を続けていると、整備室の床を鳴らす重厚な足音が響いた。昨日の予選のトップを飾った覇者、徳島支部の誇る絶対的なレジェンド――幸田文哉さんと幸田勝也さんの、阿波の快速兄弟だ。文哉さんは昨日の俺の旋回を見て、わざわざここまで来てくれたらしかった。
「お嬢ちゃんたち、そんなに力任せにマブイを込めても、エンジンが呼吸困難を起こすだけだよ」
文哉さんは、熱を孕んだシリンダーブロックを、まるで我が子の肌に触れるかのように優しく撫でた。
「一千という極純白銀の粒子を、一つの塊として水面にぶつけるんじゃない。一千個の極小のナノセンサーへと変えて、ボイラー内部の金属の微かな悲鳴を聴いてごらん」
文哉さんが指先一つでキャブレターの燃焼弁をミリ単位で微調整した瞬間、それまで濁っていた排気ノイズが、キィィィンと透き通るような美しい高音の同調音へと一瞬で変貌を遂げた。これが、金属の悲鳴を聴くということだ。俺はその音を、胸の奥に刻んだ。
翌日の朝、あおいが整備室の入口に立っていた。
「あら、誠くん。幸田さんに真理子さんにあかりちゃんまで……随分と楽しそうに、濃厚な整備をされているのね?」
山口支部の勝負服に身を包んだ守屋あおいの背後に展開する天女のマブイが、いつもより深く暗い朱色の嫉妬の炎へと変質を遂げていた。俺の顔面から一瞬で血の気が引く。
そこへ、一睡もせずに目の下に深い隈を作った大内胤賢が、黒い布に包まれた異様な真鍮の構造体を両腕に抱えて現れた。
「できたよ、誠。君が唐津の準決で完全クラッシュさせた、あの真鍮の古代データメモリの再編がね」
大内が黒い布をバサリと剥ぐと、真鍮の鈍い光と超伝導回路の精密なナノ配線が複雑に絡み合う、異形の外付け電算パーツが姿を現した。
「君の一千マブイを強制的に十倍の超高圧へと圧縮変換する緊急駆動機構だ。名付けて「再編・古代式増幅器」。これを使えば、一万マブイ相当の爆発的な出足が水上で叩き出せる。……ただし、ナノ回路が過負荷で焼き切れるまでの持続時間は、僅か三十秒。それを一秒でも過ぎれば、三十九号機のボイラーは水上で完全爆発する」
下関――準優勝戦、第十一レース。
第1話でチルト三・〇で空を飛んだ俺が、今日は同じ角度で地に這いつくばる。助走距離二百五十メートルの限界後方から、四コースのカドに並ぶ超高チルトダッシュ進入を選び取った。
「――大時計、始動ッ!!」
十二秒針の純白の針が頂点を刻む。一コースに入ったあおいが、朱色の嫉妬パルスで関門海峡の海水面を激しく威圧しながら、スロットルを全開に叩き込んだ。
「誠くん……絶対に、他の女のところへなんて行かせないわよ」
四コースの俺がスロットルレバーを限界まで握り込んだその瞬間、三十九号機のロスト・ブースターが、鼓膜を激しく引き裂くような金属の咆哮を上げた。一千の極純白銀マブイが、純白の超高圧閃光へと瞬時に圧縮変換される。三十秒が始まった。
「スー、行くぞ!! 三十秒の命、一コンマも残さず使い切ってやる!!」
ピット裏のケージからスーの「フガッ!!」という力強い鼻息が同期した瞬間、三十九号機の船首が空気を引き裂いて大きく跳ね上がった。文哉さんから教わった「一千個のナノセンサー」の極意が、下関の激しい潮風の流体ベクトルの隙間を、無音の真空滑走路として俺の網膜ディスプレイへ鮮やかに視覚化させる。
「見える……風と波の、分子の隙が……!! これが文哉さんの言っていた悲鳴だ!」
あおいの放った紅蓮の引き波の質量をアマルガム・ペラのエッジで一刀両断に切り裂き、ロスト・ブースターの十倍圧によってチルト三度の弱点を完全にハッキングした三十九号機が、幸田兄弟の伝説的な伸び足と横一線に並びかけながら、第一ターンマークへと猛烈に突っ込んだ。
三十秒の命。残り約十五秒。
関門海峡の紫紺の海水面が、中央から真っ二つに割れる。凡人の命を削る、僅か三十秒の極限死闘が、今、ホーム下関の夜の底で、激しくその幕を開けた。
(第2巻に続く)




