第55話:鉄壁の「佐賀・肥前包囲網」!
加速の鋭さと旋回の粘り――「出足」と「回り足」
からくり機艇の性能を語る上で、避けて通れないのが「出足」と「回り足」という概念である。これらはエンジンのパワーが直接的に水面にどう伝わっているかを示す、レーサーが最も重視するバロメーターだ。
出足(加速力):
スリット(スタートライン)を通過してから、あるいはターンマークでハンドルを切った直後の「立ち上がり」の速さを指す。出足が強力な機体は、マブイ石のエネルギーを瞬時に爆発的な推進力へ変えることができる。これが良いと、他艇を置き去りにする「先マイ」が可能になる。
回り足(旋回性能):
コーナー(ターンマーク)を回る際の安定感と力強さを指す。からつ特有の汽水の粘りがある水面では、回り足が悪いと外側へ大きく膨らんでしまう。逆に回り足が良い機体は、荒れた水面に機体が吸い付くように曲がり、ロスなく最短距離を駆け抜ける。
誠の「水銀のドリル」は本来、この「回り足」を極限まで高める技だが、からつ優勝戦では佐賀勢がこの二つの指標を「支部の連携」によって組織的に支配していた。
2029年3月11日。ボートレースからつ・G3優勝戦。
誠が準決勝で古代の力に飲まれ、落水に散った翌日。山口の希望を一身に背負うことになった大内胤賢、そしてライバル大峰の凱旋を「爆炎」で阻止せんとする福岡の西野貴志がピットに並んだ。しかし、展示航走の段階から、からつの水面には異様な「気」が満ちていた。
大時計がゼロを刻んだ瞬間、内枠の佐賀勢4人が、個人の勝利を超越した「国家(支部)の壁」を見せつける。
1コースの大峰幸太郎が最内を締め、2コースの宮地明がその外を完全にガード。さらに3コースの若手、下野慎太郎が本来の加速をあえて抑え、後続の進路を物理的に遮断する「動く壁」となった。極めつけは5コースのリサ・マクドナルドだ。彼女はマブイを消したまま、大内の差し筋を予知しているかのように潰し回った。
「大内くん、西野。……悪いばってん、今日は誰一人、佐賀の懐には入れんよ」
大峰の号令と共に、4艇のマブイ石が共鳴し、一つの巨大な「盾」となって第1ターンマークを旋回した。西野の爆炎まくりは下野の分厚い引き波に押し戻され、大内の精密な差しはリサのブロッキングによって、わずか数センチの隙間すら見つけられない。
「なんばしよっとかお前ら! そげん群れて走って恥ずかしくなかとね!!」
西野が怒りのスロットル全開で爆炎のマブイを燃やすが、宮地がそれを冷静に読み切る。逆方向にマブイの波動をぶつけ、西野の機体を外周へと弾き飛ばした。一方で大内は、コックピットの中で異常な数値に冷や汗を流していた。
「計算外だ。4人がマブイをネットワーク化している。これでは、僕一人の計算では太刀打ちできない……!」
佐賀勢の連携によって、大内の機体の「出足」は完全に殺されていた。
結果は凄惨なものであった。大峰、下野、宮地、リサによる佐賀支部の1位から4位独占。リニューアルされたからつを祝うにふさわしい、佐賀支部の完全勝利である。
ピットの大型モニターでその光景を見つめていた誠は、拳を血が滲むほど握りしめていた。
「……あれが、本物の支部の力。個人の強さだけじゃ、あの壁は壊せない……」
(誠、見ておけ。あの大峰の背中が、今の俺たちに足りない厚みだぞ)
シロが誠の足元で、静かに、しかし熱く語りかける。山口勢が全滅の危機に瀕する中、誠の心の中で、砕け散った「古代の歯車」の破片が再び白銀の火花を散らし始めた。
敗北に打ちひしがれる誠とあかりの前に、一人の女性レーサーが歩み寄った。佐賀支部の重鎮、野田真理子だ。あかりが義姉妹のように慕う真理子は、周囲を和ませる「結束のマブイ」の持ち主である。
「誠さん。今回はウチの支部の勝ちやけど、あかりちゃんを泣かしたままじゃ終わらせんよ」
真理子は誠に優しく、しかし芯のある視線を向けた。
「私たちは『野田同盟』。あかりちゃんがピンチの時は、たとえ支部が違っても、私はラインを組むつもりやけんね。次は山口で、暴れてあげるから!」
その言葉に、あかりの瞳に希望の光が戻った。
「そうっす! 次回は二人で最強の『野田ライン』を組んで、師匠を絶対優勝させるっす!」
独り、壊れた愛機を整備室で見つめていた大内に、誠が歩み寄った。
「大内……悪かったな。俺が残っていれば、あんな一方的な展開には……」
「……いや、誠。僕の計算が甘かっただけだ。支部の絆という非論理的な変数を、僕は過小評価していた」
大内は、誠から手渡された「割れた古代の歯車」の破片をじっと見つめた。
「この歯車、僕が預かるよ。僕の計算と、君のマブイ、そして……真理子さんたちが言う『絆』を力学的に組み込めるような、新しい機構を再編してみせる」
宿命のライバルである二人が、初めて敗北という共通の痛みを通じて、一歩歩み寄った。からつ記念は幕を閉じた。しかし、誠と大内の手の中には、次なる戦い――「支部の壁」を打ち破るための、新しい種火が灯っていた。




