第52話:松原の潮風、からつ「新時代」の幕開け
佐賀県唐津市。ここに唐津競艇場はある。日本三大松原の一つ「虹の松原」に隣接するこの水面は、からくり競艇界において**「九州の風の門」**と称される。2029年、全面リニューアルを遂げた「ボートレースからつ」は最新鋭のからくり調整設備を完備したが、それでも制御不能な「三つの試練」がレーサーを待ち受ける。
* 汽水の粘り:松浦川の河口に位置するため、水質は淡水と海水が混ざり合う「汽水」。潮の満ち引きで比重が激変し、レーサーには水が機体にまとわりつくような「粘り」を感じさせる。
* 松原の乱気流:虹の松原を抜ける風は、数万本の松に細分化され、不規則な渦となって水面に降り注ぐ。
* 広大な旋回域:全速旋回を許容する広さは、同時に「わずかなターンの膨らみ」が致命的なロスになる冷酷な舞台でもある。
そして、この「からつオープン記念」で導入されたのが、オートレースの概念を取り入れた**「ハンデライン制」**である。
実力上位者や超弩級の出力を持つ機体は、本来のスタートライン(0m)より後方――10mから最大60m後方のハンデラインから発走しなければならない。助走距離が伸びる利点はあるが、スリット通過時に先行艇の強烈な引き波を浴びるリスクを伴う、究極のサバイバル設定である。
2029年3月5日。
前橋での惜敗、そして守屋あおいからの「嫉妬の処刑特訓」を命がけで乗り越えた速水誠は、佐賀の地に立っていた。
ピットで誠を迎えたのは、佐賀の重鎮・大峰幸太郎と、かつて大村で激突した「初速の鬼」安貞雄一だった。
「誠くん、からつの水は『粘る』ばい。ここを攻略せんと、九州の風には乗れんよ」
大峰の言葉通り、ピットに並ぶ最新のマブイ測定器は、汽水の塩分濃度とマブイ伝導率の不安定なグラフを刻み続けていた。
だが、ピットの空気を一変させたのは、山口支部の同胞であり、ついに「A1クラス」へ返り咲いた**大内胤賢**だった。
「誠。前橋での負け、僕はモニター越しに見ていたよ。……あおいさんに甘やかされているから、肝心なところで『鬼』になりきれないんだ」
大内が、A1レーサーのみに許される金縁の勝負服を纏い、不敵に笑う。挫折を知り、泥を啜り、システムを再構築した「再編者」の冷徹な迫力。彼の手には、超伝導マブイグリスを塗布した新型パーツ、**「再編の翼・極」**が握られていた。
「大内……お前、本当に変わったな。いいぜ、このからつで、どっちの『最速』が本物か白黒つけよう!」
誠の白銀のマブイと、大内の再編マブイが視線でぶつかり、ピット内に火花が散った。
2. 虹の松原の影
レース前、誠はシロを連れて虹の松原へ散歩に出た。潮騒と松風が混ざり合う心地よい午後の光。しかし、機獣シロの反応は違った。
(……誠、気をつけろ。住之江の澱みとは違う。もっと冷たくて古い……異世界の『禁忌』の匂いだ)
シロの視線の先、からつ城の石垣の上に、異質な影があった。黒いマントを羽織った長身の男。その足元には、瞳が不気味な赤色に光る黒いチワワがいた。
ガイアス帝国からの第2の刺客、「陰の貴族」エドワード。
「光を喰らうには、まずその影を肥大させねばならん。速水誠……貴様の白銀が、絶望に染まる瞬間を楽しみにしているぞ」
エドワードは「オープン参加枠」でエントリーしていた。彼の目的は勝利ではない。誠の「マブイの破壊」そのものである。
【予選初日 第12R 出走表】
* 大峰 幸太郎(佐賀):0m(イン逃げの守護神)
* 守屋 あおい(山口):10m(嫉妬を加速に変える天女)
* 速水 誠(山口):20m(汽水の粘りを穿つドリル)
* 大内 胤賢(山口):30m(A1の力「再編の翼・極」)
* 安貞 雄一(大分):40m(ダッシュ一撃の特攻兵)
* エドワード(ガイアス):60m(謎の黒マント)
「大時計、始動!」
1コースの大峰が、地元の意地を見せる完璧なピット離れで0mラインを死守する。しかし、20m後方の誠と30m後方の大内が、ハンデを無視した異常な加速を見せる。
「シロ、この汽水の『重さ』をドリルの芯に叩き込め!」
誠の39号機が「水銀のドリル」を回転させると、からつの水面が銀色の渦となって巻き上がる。
だが、その隣で大内がマブイを解放した。
「遅いよ、誠。君のドリルは水を『掻く』だけだ。僕は水を『書き換える』」
大内の「再編の翼・極」が放つ超伝導波動が、周囲の汽水を分子レベルで整列させ、摩擦係数をゼロにする。大内の機体だけが氷の上を滑るような速度で、誠を置き去りにした。
さらに、最後方60mラインのエドワードが、マントを翻すように機体を傾けた。彼の機体からは「黒い霧」が放出され、夕刻の光を吸い込んでいく。視界が急速に奪われ、あおいの「天女の旋回」すらも影の中に沈もうとしていた。
「この闇の中で、貴様たちのマブイは維持できるかな?」
1マーク。大峰の堅実な逃げに対し、大内の「再編の翼」が鋭く切り込む。誠は真空のドリルを反転させ、エドワードの黒き霧を逆噴射で吸い込みながら強引に航跡を作った。
「あおい、俺の後ろについてくれ!」
「誠くん……分かったわ!」
誠の白銀が闇を裂き、あおいの天女がその光の道をトレースする。
大内、誠、エドワードの三艇が、からつの最新ビジョンを破壊せんばかりの衝撃波を撒き散らしながら、バックストレッチへ。
リニューアルされたばかりの聖地で、人間と再編者、そして異世界の怪物のマブイが混ざり合い、空前絶後のデッドヒートが幕を開けた。




