アンティーク・スカイ
二〇二九年、四月二十日。SG「九州王座特区戦」――準優勝戦、第十一レース。
「松風パッチ」の超低空滑走を以て、第一ターンマーク直前で鮮やかに先頭へと躍り出た、俺――速水誠と三十九号機の視界。そこを、地元佐賀の誇る強固な「佐賀の壁」が非情にも遮った。
「速水さん、悪いっすけど……ここからは佐賀支部の時間です!」
下野慎太郎さんが外付けマブイ一万八千を全解放し、からつの重い汽水面に、ハルを噛み砕くような引き波の絶壁を発生させた。その極小の隙間に、五コースからリサ・マクドナルドの機体が影のように滑り込んでくる。二人のマブイが「佐賀のプライド」という一点の周波数において水面下で強烈に共鳴し、俺のハイドロステップを両側から圧殺するサンドイッチ・ダンプを敢行してきた。
カウル底面の古代データメモリが、現代の電算電磁システムとの激しいデータ干渉に耐えかね、耳を刺すような高周波の電子悲鳴を上げた。スーの生命パルスとの限界同期を確立しながら、俺はハンドルにあえて数ミリの「遊び」を作って絶壁の衝撃をハイドロ全体でいなし、プロペラの逆相サイクルを緊急駆動させた。
超高回転で逆回転したアマルガム・ペラが唐津の汽水と強烈に反発し、横ベクトルへの爆発的な推進力を発生させる。三十九号機の右舷エッジが下野さんの引き波の絶壁の頂点を、重力をあざ笑う壁走りのようにして一瞬で駆け抜けた。物理学の理屈を完全にハッキングした三次元立体旋回――新奥義「古代跳躍旋回」。
唐津の全スタンドが静まり返った。この感覚だ。一千の刃が世界の理を超えた瞬間の静寂。
しかし次の瞬間、「ガキィィン!」という、最悪に不吉な金属破壊音が機体の底面から鈍く響き渡った。過酷極まる限界駆動の過負荷に、真鍮の古代データメモリが超臨界を迎え、内部のナノ回路が瞬時に焼き切れたのだ。外部のコードに頼りすぎた。その代償が来た。
潤滑の電算パッチを完全に失った三十九号機が、唐津のまとわりつく汽水の粘り気へとダイレクトに晒され、霊子ボイラーの燃焼サイクルに急激なノッキングが発生する。制御を完全に失った白銀の機体が、狂暴な三角波に煽られて派手に跳ね上がり、コンクリート護岸のすぐ目の前の汽水面へと、強烈な重力加速度で激しく叩きつけられた。
凄まじい水柱の飛沫と共に、三十九号機が水面下へと完全転覆。俺の生身の身体が、唐津の凍てつく冷たい汽水の中へと真っ逆さまに放り出された。急速に遠のいていく意識の底で、耳裏に届いたのは、下野さんとリサのエンジンの、高らかな勝利の残響だけだった。
「速水誠、最終周回でまさかの転覆落水失格!!」
ピット裏の救護艇に引き上げられ、濡れ鼠のままコンクリートの上で立ち尽くしていた俺の元へ、野田あかりが涙目でタオルを抱えて駆け寄ってきた。だが、俺の瞳は、自分の足元をそっと舐めて励まそうとしてくれているスーの姿しか、もう映していなかった。
スーが俺の頬を不器用に舐めた。温かかった。俺は自分の掌を見た。この手が一千の純度でメモリを駆動させた。データがなければ、何も残らなかったわけじゃない。俺自身の力がそこにあったはずだ。
「……ありがとな、スー。俺、またここから這い上がるよ」
悔しさに震える拳を力の限り握り締め、俺が唐津の冷たい夕空を見上げると、大内胤賢が無言でこちらへ歩み寄ってきた。
「誠。古代のデータメモリに、君自身のマブイの耐久力が負けたんだよ。外部のコードに頼りすぎた報いだ」
その言葉は刃として刺さった。だが俺は気づいていた。大内の白い手袋をはめたその手には、水中で過負荷により黒焦げになってカウルから剥がれ落ちていた、あの真鍮の古代データメモリの残骸が、壊さないように固く、大切に握り締められていた。
大内はその焼き切れた基盤を、自らの作戦電算端末のポケットへ深く仕舞い込むと、俺に背を向けてピットの奥へと歩き出した。
最終優勝戦の番組表に、速水誠の名はもうない。
しかし、山口支部の誇りと俺たちの白銀の執念をその背中に全て背負った再編者――大内胤賢が、唐津を統べる佐賀の巨頭たちを相手に、孤独な最終決戦のプールへと挑もうとしていた。俺から託された、真鍮の欠片(松風のアルゴリズム)を、その胸の奥深くに静かに秘めて。




