松風のアルゴリズム
二〇二九年、四月十九日。
予選でのエドワードの蝕属性の暗黒ノイズを、山口四天王の電算ハッキングによって辛うじてねじ伏せた俺たちは、からつ宿舎の裏手に広がる「虹の松原」にいた。散歩時間、俺――速水誠は、愛犬のパグ――スーを連れて、砂混じりの松林へと歩みを進めていた。隣には、瓜生俊樹の姿もある。
「誠。大峰さんや宮地さんの見せる驚異的な進入技術は、単なる電算の計算じゃない。あの人たちはこの唐津の地脈……長年水底へと堆積してきた、からくり機艇のマブイの排気残滓を、生身の肌で読み取っているんだ」
瓜生が眼鏡の奥の瞳を細めたその瞬間だった。
普段は俺の腕の中で丸まっているスーが、突然松林の奥へと激しく走り出し、砂地に半分埋もれた巨大な鉄の魚のような古代機艇の残骸の前で、前脚を使って器用に砂を掘り返し始めたのだ。露出したのは、現代の電子鋳造技術では不可能なほどの超高密度で精錬された、真鍮製の古代データメモリだった。
俺が電算端末をそのコアに接続した瞬間、鉄の残骸から微かな白銀の流体光が漏れ出し、スーの鼻息の脈動と完全に同期した。唐津の汽水域が持つ特有の重い粘性抵抗を、プロペラ回転の反発推進力へと分子レベルで強制反転させる、ロストテクノロジーの調律アルゴリズム――「松風パッチ」の覚醒だった。百年以上前のこの地を走った機艇師が辿り着いた答えが、今ここでスーを通じて俺に届いている。
「……おい、速水。そこで何ばしよっとか?」
松林の影から、散歩中だった佐賀の宮地明さんが静かに現れた。
「からつの風と水のロジックが、少しだけ分かった気がします」
俺が端末を握りしめて返すと、宮地さんは不敵に口角を上げて笑い、去り際に言い放った。
「古代のデータごときで割れるほど、俺たち佐賀一門のラインは柔じゃないけんね」
四月二十日。ボートレースからつで開催されているSG「九州王座特区戦」――準優勝戦、第十一レース。三着以内に入れば優勝戦へ。
一コースに入った佐賀の下野慎太郎さんが、外付けマブイ一万八千の爆発的なトルクを以て、スリットラインに強固な佐賀の防壁を築き上げる。三コースに据えられた俺は、「松風パッチ」をギヤケースへ完全に噛み合わせた三十九号機のスロットルを、静かに、深く開いた。
(軽い……! からつのあのまとわりつく汽水が、まるでシルクのように滑らかにハルを流れていくぞ!)
他艇が泥沼のような流体抵抗にカウルを苛まれる中、三十九号機だけが、摩擦係数ゼロの氷の上を滑るような異常な絶対速度を見せた。
「させるかぁ! これが佐賀の職人の根性たい!」
下野さんが強引に右舷ハイドロを傾け、俺の高速まくりを真っ正面からインブロックしにくる。だが、その激しい引き波の真後ろを、五コースから発進したリサ・マクドナルドの機体が、吸い付くような超低空でトレースしてきた。コアマブイわずか九十九、外付け九百九十九という極低数値を掲げる、海外特区ギルドからの謎の留学生だ。
前検日のピットで見かけた時から、この水面が好きだと言っていた。そして彼女は電算に頼らず、水面の微かな波紋と風の歌を肉体の神経系で聴き、最短の線を感覚で選ぶ、天性の「無垢の旋回」を持っていた。
「誠さん、その白銀のライン……とっても綺麗。だから、私がもっと綺麗になぞってあげる」
リサの機体がマブイの電磁干渉を一切受けない無音の超滑走を以て、俺の作った流体の通り道の死角へと滑らかに滑り込んできた。
「下関でのあのあおいの処刑特訓に比べれば……この程度の流体抵抗、なんてことはない!!」
俺は真空還流弁を最大に開放し、下野さんの強烈なインブロックを、松風パッチによる超低空ハイドロ滑空を以て鮮やかに回避。水面数ミリのデッドラインでハルを激しく擦り合わせながら、同時に背後から迫るリサの無垢の旋回を、スーとの同調が生み出す白銀の余韻で冷酷に牽制した。
第一ターンマークの頂点、三艇が激しい火花を散らして横一線。
佐賀の堅牢なる壁、誠の覚醒させた古代の遺産、そしてリサの天性の感性。からつの汽水面に三つの異なる色彩の航跡が交差し、まるで夜空に巨大な虹が架かったような錯覚を、観衆の網膜へと鮮烈に与えた。
行くぞ、スー! 大内が待つ、決勝の舞台へ!!
三十九号機の白銀の機体が、虹の松原の風をその背に受けて、超高圧の白銀の閃光へと変わった。




