蝕の防波堤
二〇二九年、四月中旬。
前橋ドームでの河田レジェンドとの激闘、そして下関でのあおいの笑顔の処刑特訓を命懸けで乗り越えた俺――速水誠は、佐賀の地に立っていた。
ボートレースからつ。日本三大松原「虹の松原」に隣接するこの広大な水面は、松浦川の河口に位置する特異な汽水域だ。潮の満ち引きによって塩分比重が刻一刻と激変し、まるで機体のハル全体にまとわりつくような、重くねっとりとした特有の「粘り」をレーサーに感じさせる。数万本の松林が細分化させた狂暴な乱気流が、不規則な渦となって水面へ容赦なく降り注ぐ冷酷な舞台だ。
今大会は「進入制限システム」という電算による特例レギュレーションを採用していた。実力上位者や超弩級のマブイ出力を持つと判定された機体は、インコースへの進入を電子ロックされ、四コースより外側のダッシュ域から強制発走させられるのだ。
「からつの水は粘るばい。ここを完璧に攻略せんと、九州の風には絶対に乗れんよ」
地元・佐賀の大峰幸太郎さんが、分厚い掌で俺の肩を叩いて豪快に告げた。
だが、ピット裏の空気を一瞬にして絶対零度へと変えたのは、A1クラスへの返り咲きを果たした大内胤賢だった。山口四天王のゴールドラインを配した特製勝負服を纏い、その手には新型パーツ「再編の翼・極」を静かに握り締めている。
「誠。あおいに地上で甘やかされているから、君は肝心なところで勝負師の鬼になりきれないんだ。このからつの水面で、どちらの最速が本物か白黒つけよう」
「上等だ、大内。どっちの刃が鋭いか、真っ正面から試してやる!」
甘やかされてる。その言葉が、胸の奥に刺さった。俺は今、本当に鬼になれているか。
予選初日のレース前、俺がスーを連れて虹の松原へと散歩に出かけたその時だった。スーが突然、松林の奥の深い暗がりをキッと睨みつけ、喉の奥から低く狂暴に唸り声を上げたのだ。
見上げると、からつ城の古い石垣の上、ステルスナノカーボン製の防護ケープを羽織った長身の男が、静かに佇んでいた。三十九号機を望遠レンズで記録していた男と同じ目だ、と俺は直感した。
海外の巨大マブイコングロマリット「ガイアス・エンジニアリング」傘下の先端特区ギルドが密かに送り込んできた、最高位SS級テストレーサーのエドワード。データ掲示板カササギにおいて「陰の貴族」と恐れられる最悪のハッカーだ。
「白銀の光を喰らうには、まずその影を肥大させねばならん。速水誠……貴様の結晶が絶望に染まる瞬間を、海の底から楽しみにしているぞ」
奴の目的は勝利なんかじゃない。三十九号機の持つマブイ燃焼サイクルの、物理的な完全破壊だ。
予選初日、第十二レース。一コースの大峰さんが地元の圧倒的な意地を以てスローラインを死守する中、制限によって四コースのカドへと据えられた俺と、五コースの大内が、ダッシュ域からの強烈な初期加速を見せた。
スーの生命パルスとの限界同期を確立しながら、俺は三十九号機の水銀のドリルを狂ったように高速回転させ、唐津のプール水面が白銀の巨大な渦となって巻き上がる。しかし、すぐ隣から発進した大内の五号艇が、その十万マブイを完全に解放した。
「遅いよ、誠。君のドリルは水を掻くだけだ。僕は——水を書き換える」
大内の「再編の翼・極」から放たれた氷極属性の超伝導波動が、自機周囲の汽水を分子レベルで完璧に整列させ、流体摩擦係数を一瞬にして「完全なゼロ」へと強制ハッキングしたのだ。大内の機体だけが唐津の粘りに一切捕らわれることなく、滑らかな氷の上を滑るような異次元の絶対速度で、俺を瞬時に置き去りにしていった。
さらに、大外二百五十メートルの極限後方から、エドワードの特殊機体が黒い弾丸となって突っ込んできた。カウルの底面から「蝕属性」を帯びた黒い流体排気プラズマが大量に放出され、唐津の夕刻のカクテル光線を、物理的に吸い込んで完全遮断し始めた。
周囲の視界が、急速に真っ暗闇へと奪われていく。
その暗黒の中、二コースから鋭く旋回に入ろうとしていたあおいの「吉備津彦」の機首が、ぐらついているのが見えた。網膜ディスプレイが光学ハッキングのバグノイズによって激しく侵食されているのだ。
あおいが危ない。




