岡山の意地
二〇二九年、四月十二日。ボートレース前橋ドーム競艇場――「ドーム密室戦」、最終優勝戦。
前日の準優勝戦で一着を取った俺――速水誠は、最終優勝戦のピットアウトの瞬間、優勝候補筆頭の岡山のレジェンド――河田元気さんの動きを見て、背筋が凍りついた。河田さんが一コースの絶対的な利をあえて自ら捨てたのだ。機体を小回り防止ブイの手前、助走距離二百メートル以上の限界後方まで下げ、静止する。
「誠くん。君のドリルは見事だった。だが、岡山の逃げの底、まだ見せておらんかったな」
八万五千の障属性マブイ石が、クランクケースの奥で重厚に唸りを上げる。前橋の人工低気圧による出足の鈍さを、二百メートルの助走が産み出す絶対加速量によって力ずくで塗り潰す――「インガマシ」。岡山の重鎮が打った、生涯最大の大博打だった。
黒大時計の白針がゼロを刻んだ。河田さんの機体が鉄の弾丸と化し、時速二百三十キロを超えて第一ターンマークへと肉薄した。二コースの光さんが風のドレスで俺の進路を塞ぎ、四コースのあかりがギャル魂全開の強引なツケマイで応戦する。女子二人の感情の火花が水面を荒れ狂わせる中、河田さんの作り出した巨大な引き波の絶壁が、二人のハイドロバランスを無慈悲に奪い去った。
三十九号機が凶暴な引き波の質量に呑まれ、激しいノッキングを起こしたその瞬間だった。
俺のヘルメットのインカムからスーの生命パルスが限界同期を果たした。と同時に、三十九号機のジャイロセンサーが過負荷エラーを起こし、カウリング底面への強制ダウンフォースが最大出力で作動したのだ。
「……下関のあおいの遠隔嫉妬ノイズが、ジャイロを狂わせて、機体を水面に圧着させてくれてる! この引き波の絶壁でも、底板が絶対に跳ねないぞ!」
俺はあかりと叩き上げた持ちペラの歪みへ一千の極純白銀マブイを収束させ、真空還流弁を逆流駆動させる。あおいの執念が宿る超重量グリップの異質さを逆に利用した「真空のドリル」を作動させた。
最終第二ターンマーク。水面にベタリと吸い付く異常な低空滑空を活かし、河田さんの絶対障壁の懐、わずか数センチの隙間に白銀のドリルを深くねじ込んだ。二艇のハルが鈍い金属音を響かせながら、ホームストレッチの直線走路で激しく激突する。しかし、河田さんが魂の底から咆哮した。
「速水くん……君は強い。だが、あおいちゃんを山口へ送り出した俺たちには、ここで折れるわけにはいかん意地があるんじゃぁぁ!!」
安全装置のすべてをマブイ圧で強引に焼き切り、八万五千のマブイ石をクランクケース内で臨界爆発させながら、河田さんは数センチのリードを死に物狂いで死守し、ゴール板を駆け抜けた。
一着・河田元気。二着・速水誠。三着・山崎光。
ピットへと帰投した河田さんの機体からは真っ白な霊子蒸気が激しく噴き出し、役目を終えた八万五千のマブイ石は灰へと変わっていた。
「強かったよ、誠くん。あおいちゃんが惚れ込むわけだ」
過負荷で震える手で、固く握手を交わした河田さんの目には、勝利の喜びと、愛弟子を山口へと託した安堵の涙が浮かんでいた。
「あおいちゃんを泣かせたら、岡山全員引き連れて下関を沈めに行くからな!」
足元でスーがピット裏のケージから「フガッ」と、短く了解の返事をした。
俺は二着という結果を、ピットで三十九号機のカウルを磨きながら受け止めていた。岡山の意地に負けた。それは本物の敗北だ。でも、その意地はあおいを山口に送り出した日から燃えていたのだから、俺が勝てる道理はなかった。
三着の光さんが呆然と俺の後ろ姿を見送る前に、あかりがその前に立ち塞がった。「師匠はこれから天女の特訓が待ってるんす。群馬の風はまた今度にしてほしいっすね!」
あかりに強引に手を引かれ、俺たちは逃げるように前橋ドームを後にした。
帰りの新幹線の席、俺の手元の電算端末に、あおいからのメッセージパルスが届いていた。
『部屋の壁の写真、五枚に増えたからね。帰還を心から楽しみに待ってるね(^^)』
俺は河田さんの震える手の感触を思い出しながら、プラグレンチをギュッと握り締めた。あおいを山口に送り出した男の意地を、俺は今夜の二着として受け取った。次は、その意地ごと追い越してみせる。




