真空のドリル
二〇二九年、四月十二日。
山口・下関競艇場のピット裏では、守屋あおいの移籍後初優勝報告トークショーが華やかに開かれていた。会場を埋め尽くした数千のファンの前にいつもの凛とした笑顔で登壇したあおいだったが、ステージの大型モニターに、遠く群馬の地で開催されている前橋ピットの4K電算映像がリアルタイムで映し出された瞬間、その笑顔が絶対零度の拒絶反応を以て完全に凍りついた。
整備に没頭する誠の左右から、これでもかと距離を詰め寄る首席弟子の野田あかりと、地元の令嬢・山崎光の姿が、残酷なほど鮮明に映し出されていたのだ。
「メッセージ……? そうですね。前橋は人工制御の風が強いですから、余計な火遊びをすると一瞬で火だるまになっちゃうよ、と伝えてください。下関に帰ってきたら私の愛機と、水上で一〇〇本勝負ね。もちろん、笑顔で」
マイクがキィィィィィンと鋭い悲鳴を上げ、あおいの放った嫉妬マブイの共振波が、物理現象として音響スピーカーの基盤を激しく揺らした。電算データ掲示板には、瞬く間に「#誠生きて帰れ」のハッシュタグが全国トレンド一位へと叩き込まれた。
その最悪の殺気を本能のジャイロで察知したのか。前橋ドームのピットでハンマーを握っていた俺――速水誠の背筋に、ゾクッと震えるような氷の戦慄が走った。足元ではスーが工具箱の影から起き上がり、フガフガと不安そうに小さく鼻を鳴らしていた。
前橋ドーム特区――最終優勝戦。
カクテル光線の下、一コースから発進した河田元気さんが、八万五千の障属性マブイをプール全体へと咆哮させた。「絶対逃走ッ!!」
河田さんの展開した絶対障壁が、第一ターンマーク付近のすべての引き波の流体分子を完全消失させ、後続の航路を圧殺する。そこへ、四コースから発進したあかりが爆属性マブイを解放して強引に内側へと艇を絞り込んできた。あかりが爆属性を持つレーサーだったとは、師匠として初めて知った気がした。
「師匠の道は、ウチが作るっす! 光ちゃん、どいて!!」
「邪魔ですわ! 誠さんの隣は私の風が吹く場所です!」
二コースの光さんの「真空吸入旋回」と、あかりの爆属性マブイが第一マーク手前で正面衝突。ハイドロステップへの揚力を完全に遮断する、恐るべき「マブイ粒子の空白地帯」が人工的に発生した。三十九号機が激しいノッキングを起こし、水面の上で完全に停止しかける。
(止まれるか……! 低気圧の真空なら、その引き込む負圧を、逆算の刃にできるはずだ!)
あかりが徹夜で仕上げた持ちペラの、前橋用に施した髪の毛一本分の歪みのロジック。スーの生身の脈動との限界同期が完璧に確立された瞬間、俺はマブイ石の真空還流弁のシャッターを、一時的に「逆流駆動」させるという賭けに出た。
シリンダー内の残存マブイ粒子を一点に極限濃縮し、真空の穴へ向けて一気に解放する。負圧を逆算の刃へ。新奥義――「真空のドリル(アマルガム・バキューム)」!
「スー、行くぞ!!」
スーが「フガッ!!」と力強く鼻を鳴らした瞬間、白銀の三十九号機が虚無の穴を最短距離の線の真ん中から一刀両断にぶち抜いた。河田さんの絶対障壁は外圧の暴力には無敵を誇るが、内側からの急激な負圧吸引に対しては極めて脆弱だ。俺のダイヤモンドのエッジが、絶対領域の周波数の隙間を差し穿った。
チェッカーフラッグ。一着、速水誠。
「師匠! 完全に愛の力っすよ!」
「次はもっと、私の風であなたを優しく包み込んで差し上げますわ」
レース後、二人の熱い視線と気流摩擦に冷や汗が止まらない俺の手元の電算端末に、ピピッと一件の通信パルスが届いた。
【送信者:守屋あおい】
優勝おめでとう。その女の子たちとの楽しそうなピット写真、すでに私の部屋の壁に四枚貼ってあるから。下関への帰還を、心から楽しみに待ってるね(^^)
俺の顔面から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。足元でスーが「フンッ」と生意気に鼻を鳴らし、ケージの奥へとフイッと頭を引っ込めた。
「スー……俺、このまま山口に帰らないで、琵琶湖の奥の山に修行に行っていいかな」
スーは丸くなって目を閉じ、明確に「知らん」という返事をした。
俺は前橋完全制覇の喜びも束の間、次に待ち受ける本当の死闘に向けて、震える手でプラグレンチを握り締めた。前橋ドームのいかなる人工低気圧よりも、下関で待つあおいの嫉妬マブイの純度の方が、遥かに高く、そして深いことを、俺は今、身を以て恐怖していた。




