第50話:下関の嫉妬天女と、前橋の真空ドリル
からくり競艇において、レーサーは単なる操縦者ではない。自らの機体と対話し、その魂を研ぎ澄ます「機工士」でもある。特に、前橋のような気圧も湿度も特異な環境では、ピットでの整備が勝敗の9割を分かつ。
誠の整備バッグには、魂の一部とも呼べる「相棒」たちが並んでいる。
プロペラ修正ハンマー:数ミクロン単位の歪みをプロペラに与える「持ちペラ」修正の要。叩く音の反響一つで、金属の疲労度やマブイの伝導率を聴き分ける。
リード厚み計:翼の厚みを測定する精密機器。マブイ石の出力が金属の厚みにどう干渉するか、誠は指先の感覚だけで「1000分の1ミリ」の変化を捉える。
マブイ石研磨布:心臓部であるマブイ石を磨く最高級セーム革。皮脂一つで出力が減衰する繊細な石を、誠は鏡のように磨き上げる。
プラグレンチ:不完全燃焼を起こしやすい高地では、点火系のチェックが命だ。レンチ一本の締め具合で、エンジンの「呼吸」を整える。
これらの道具を使いこなし、機体と完全に「同期」した者だけが、前橋という名の迷宮を突破する資格を得るのである。
2029年2月12日。
誠が前橋ドームで女子二人の猛烈な「愛の気流」に揉みくちゃにされている頃、山口県のホーム・下関競艇場では、背筋の凍るような「冷気」が漂っていた。
守屋あおいによる優勝報告トークショー。会場を埋め尽くしたファンの前に、あおいは華やかな笑みを浮かべて登壇した。
「えー、あおい選手。誠選手は今、前橋で奮闘中ですが、何かメッセージは?」
司会者のサービス精神たっぷりな質問。しかし、あおいの笑顔は一瞬にして絶対零度まで凍りついた。
ステージの大型モニターには、カササギでリアルタイム配信されている前橋ピットの様子が映し出されていた。そこには、整備に没頭する誠を左右から挟んで詰め寄る野田あかりと山崎光の姿が、4K画質で残酷なほど鮮明に映し出されている。
「メッセージ……? そうですね。誠くん、前橋は風が強いから、余計な『火遊び』をすると一瞬で火だるまになっちゃうよ、って伝えておいてください。……あと、帰ってきたら私の『天女』と100本勝負ね。もちろん、笑顔で」
マイクがキィィィィィンと悲鳴を上げ、激しいハウリングを起こす。あおいの嫉妬マブイが物理現象として会場を揺らした。下関のファンたちは一斉にスマホを取り出し、ハッシュタグ「#誠生きて帰れ」「#誠の遺書代筆します」がトレンド入り。山口支部全体が、誠の無事を(物理的ではない意味で)祈り始めた。
そんな下関からの遠隔的な殺気を本能で察知したのか、前橋の誠はゾクッと背筋を震わせていた。
「シロ……なんだか、西の方から恐ろしいプレッシャーが来る気がする」
(……誠。今は目の前の『鬼』と『風』に集中しろ。あおいのことは、帰ってから考えればいい。……もし生きて帰れれば、だがな)
第12R、優勝戦。
カクテル光線に照らされた水面で、1コースの河田元気が咆哮した。
「絶対逃走!!」
河田の85,000マブイが水面に叩きつけられ、衝撃波で1マーク付近の水面が一時的に消失する。盤石の逃げ。一方で、4コースのあかりが強引に内へ絞ってくる。
「師匠の道は、ウチが作るっす! 光ちゃん、そこどいて!!」
「あかりさん、邪魔ですわ! 誠さんの隣は私の風が吹く場所です!」
光が放つ「吸引旋回」と、あかりが放つ「ギャル魂の激突」が正面衝突した。二つの強烈な個性がぶつかり合い、その反動で周囲の空気が一気に外側へ弾き飛ばされる。
発生したのは、「マブイの空白地帯(真空)」。
通常の機体であれば、酸素とマブイの供給が絶たれ、瞬時にエンジンが沈黙する死の領域。誠の39号機もまた、激しいノッキングを起こして停止しかける。
「止まるかよ……! ここが真空なら、その『引き込む力』を味方にする!」
誠は整備道具を握り締めた時の感覚を思い出した。ミリ単位の調整。機体の肺活量。彼はシロと意識を極限まで同調させ、マブイ石の出力を一点への「収縮」に全振りした。
新奥義、『真空のドリル(アマルガム・バキューム)』。
周囲のマブイを頼らず、機体内部のシリンダーに溜めたわずかな残存粒子を一点に凝縮。それを気圧の低い「真空の穴」へ向けて爆発的に解放する。吸い込まれる力をそのまま推進力に転換する、無酸素加速。
「シロ、行くぞ!!」
「ワン!!」
白銀の機体が、虚無の穴を最短距離でぶち抜いた。
内側で絶対のシールドを張っていた河田元気の目が、驚愕に見開かれる。河田のシールドは外圧には強いが、内側からの吸引には脆弱だ。誠のドリルが、絶対領域の隙間を光速で穿った。
ゴール板を1位で駆け抜けたのは、ボロボロになりながらも白銀に輝く誠の39号機だった。
2位は光との競り合いに辛うじて勝ったあかり、3位は河田。
ピットに戻った誠を待っていたのは、歓喜するあかりと、悔しさに唇を噛む光の猛追だった。
「師匠! 見たっすか、完全に愛の力っすよ!」
「誠さん……次はもっと、私の風であなたを包み込んで差し上げますわ」
二人の熱い視線に冷や汗が止まらない誠。さらに追い打ちをかけるように、私物のタブレットに通知が届いた。
【送信者:守屋あおい】
【件名:お疲れ様(ハート抜き)】
『優勝おめでとう。ところで、その女の子たちとの楽しそうな写真、すでに私の部屋の壁に貼ってあるから。帰国を、心から楽しみに待ってるね(^^)』
誠の顔から血の気が引いた。
「……シロ。俺、このまま標高の高い山に修行に行っていいかな?」
(……諦めろ、誠。どこまで逃げても、あおいの『天女』からは逃げられん)
誠は優勝の喜びも束の間、次の「本当の死闘」に向けて、愛用のプラグレンチを震える手で握り締めた。前橋の標高よりも、あおいの嫉妬マブイの方が、遥かに高く、深いことを彼は知っていた。




