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からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第2章:駆け出し編

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第5話:女王の眼光、下関の邂逅

 2027年6月初旬。山口県、下関の街は関門海峡から吹き抜ける初夏の風に包まれていた。

 下関競艇場での劇的なプロ初勝利から数日。速水誠、瓜生俊樹、そして彼らの面倒を見る自称・マネージャー兼メカニックの菜奈の3人は、束の間の休息として活気ある市場を歩いていた。誠の腕の中には、昨日の激戦でも物怖じせず、今は眠たそうに目を細めているペキニーズのシロがいる。

 「ええか誠、俊樹。プロの賞金は『自分を磨くための金』やき! 美味いもん食うてパァーッと使うなんて無駄遣いしたら、うちは承知せんよ!」

 菜奈が鋭い讃岐弁で釘を刺す。彼女は誠たちの賞金管理から、機体の予備パーツの発注までを仕切る、このチームの「司令塔」だ。誠は苦笑しながら、初勝利の賞金が入った封筒の厚みをポケット越しに確かめた。

 「わかってるって。……それより俊樹、プレゼントを選ばせてくれよ。お前の先導がなきゃ、あの『チルト3.0』はただの自殺だった。これは俺からの礼だ」

 誠がそう言うと、隣を歩く瓜生は相変わらず無表情のまま、市場の隅にある、一般客は見向きもしないようなマニアックな工具店を指差した。

 「……なら、あれがいい」

 彼が指差したのは、鈍い銀光を放つ「絶縁クロムバナジウム鋼」のスパナセットだった。

 一般のレーサーにとって、工具は自分のマブイを機体に馴染ませるための「伝導体」である。しかし、コアマブイ0の瓜生にとっては話が別だ。彼は、自分の微弱な生体電流すら機体に干渉させたくないと考えていた。

 「絶縁スパナ……。マブイを一切通さない、純粋な物理干渉のための道具か」

 店主が奥から出してきたそのセットは、特殊なコーティングが施され、マブイを流そうとしても全てを跳ね返す「拒絶の鋼」でできていた。瓜生はその一本を手に取り、その重みと重心を確かめる。

 「……これなら、機体の『真実の振動』だけが手に伝わる。マブイというノイズに邪魔されずに、ボルト一本の歪みを計算できる」

 瓜生にとって、マブイとは不安定な「不確定要素」でしかない。彼が求めているのは、物理学と数学が支配する完璧な調律だ。誠は快くその高価なスパナセットを買い上げた。

 そして自分用には、これからの連戦に耐えうる39号機の予備強化パーツと、何よりも大切な相棒であるシロのための「最高級エサ」を選んだ。だが、幸せな買い物の時間は、唐突に終わりを告げた。

 市場の喧騒が、まるで水を打ったように静まり返った。

 威勢の良かった魚屋の親父も、値切り交渉をしていた客も、そして荒くれ者で知られるベテランメカニックたちまでもが、一斉に道を開け、頭を垂れる。空気の密度が、物理的に変化した。

 誠の皮膚がチリチリと焼けつくような感覚を覚える。それは、あまりにも強大で、あまりにも「統率」されたマブイの波動だった。

 「……あら、こんなところで未来のスター候補生に会えるなんて。運がいいわね」

 冷徹でありながら、全てを包み込むような圧倒的な声。そこに立っていたのは、漆黒のレーススーツに身を包んだ女性――大阪支部の絶対的女王、鎌倉明奈だった。

 彼女が纏うマブイの総量は、推定70,000。

 誠の1000がロウソクの火だとするなら、彼女は真夏の太陽そのものだ。だが、そのマブイはかつてのライバル・山崎のように周囲を焼き尽くす暴走はしていない。鎌倉の意思によって、ミリ単位の精度で「圧縮」され、彼女の周囲に絶対的な重力場を形成していた。

 「君が速水誠くんね。あの『不死鳥』上田校長が、わざわざ私のところにまで『面白いのが行くぞ』と連絡をよこした秘蔵っ子……」

 鎌倉がわずかに瞳に力を込める。その瞬間、誠の脳内にキィィィィンという激しい耳鳴りが突き刺さった。あまりのマブイ圧に平衡感覚が狂い、誠の膝が折れそうになる。格の違い――言葉にするのも愚かしいほどの絶望的な距離。

 「……でも、その程度のマブイ量で、私の前に、そして24箇所の地獄(レース場)に立てると思っているのかしら?」

 誠は歯を食いしばり、顔を上げようとするが、鎌倉の放つ「質量の波動」がそれを許さない。その時だった。

 「ワンッ! ワンッ!!」

 誠の腕の中で、これまでぬいぐるみのように大人しくしていたシロが、猛然と鎌倉に向かって吠えかかった。

 「シロ……!? やめろ、危ない!」

 誠が止めようとしたが、驚くべきことが起きた。シロが放つ高周波の鳴き声と、その小さな体から発せられる微細な振動が、鎌倉の放つ圧倒的な重圧を、誠の周囲だけ「中和」して消し去ったのだ。

 ペキニーズ。

 古代中国では「獅子犬」と呼ばれ、皇帝にのみ飼育を許された聖なる犬。この「マブイ」がエネルギー源となった2026年の世界において、ペキニーズは古来より「機獣を鎮め、邪悪なマブイを浄化する神の象徴」としての適性を持っていた。シロの小さな魂が、女王の巨大な太陽に対して、一歩も引かずに「障壁」を張ったのだ。

 誠に突き刺さっていた重圧が、霧散する。

 「……へえ。面白いワンちゃんね。私のマブイに物怖じしないばかりか、干渉してくるなんて」

 鎌倉明奈は、驚きを隠すように薄く微笑んだ。彼女は威圧を解き、誠の顔を覗き込むように近づく。香水の代わりに、プロのレーサーだけが纏う「高品質グリス」の香りが、誠の鼻腔をくすぐった。

 「誠くん。一つ忠告しておくわ。マブイが少ない者が、多い者に勝つために『節約』や『効率』を考えるのは当然のこと。でも、それではいつか限界が来る」

 彼女の瞳が、鋭い氷のように誠を射抜いた。

 「マブイを『節約』するだけじゃ足りない。マブイを『無』にする覚悟ができたら、大阪へいらっしゃい。本当の地獄が、どんな色をしているか教えてあげるわ」

 鎌倉はそれだけ言うと、マブイの残光を残して、人混みの中へと消えていった。

 「……誠、大丈夫や? 息、止まっとったで」

 菜奈が青ざめた顔で駆け寄る。誠は激しく脈打つ鼓動を抑えながら、彼女が去った方向をじっと見つめていた。

 「……俊樹。今の、分かったか?」

 「ああ。……あんなの、機械でも無理だ」

 瓜生が、絶縁スパナを握りしめたまま呟く。

 「彼女の周りだけ、マブイが完全に『統率』されていた。普通、あれだけの出力があれば、周囲の空気が熱せられたり、放電したりするはずだ。でも彼女は、その膨大なエネルギーを自分の中に『閉じ込め』て、一滴も外に漏らしていない。暴走の欠片もない、完璧な封印だ」

 「マブイを『無』にする……か」

 誠は、自分の手のひらを見つめた。1000しかないマブイ。それを守るのではなく、消す。その言葉の真意はまだ分からない。だが、女王が見せたあの圧倒的な「静寂」こそが、次に進むべき扉であることを確信していた。

 誠は、まだ鎌倉の方を向いて唸っているシロを優しく抱き直した。

 「よし、帰ろう。……このスパナで39号機を完璧に組み直すぞ。住之江に呼ばれたんだ。もたもたしてられない」

 初賞金で買ったばかりの「絶縁スパナ」と「シロの最高級エサ」。それらは、今の自分たちに手に入る最高の武器だった。

 だが同時に、二人は思い知っていた。自分たちが今立っている場所は、まだ巨大なピラミッドの最下層に過ぎないということを。

 「女王」の眼光に焼かれた記憶を胸に、誠たちは次なる戦場、水の都・大阪への準備を始めるのだった。



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