表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第1章:駆け出し編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/185

デビュー戦

二〇二七年、五月下旬。関門海峡は牙を剥いて吠えていた。

 瀬戸内海の穏やかな海水と日本海の外洋が真っ向から衝突する、国内屈指の難水面だ。干満差によって潮流が分刻みで反転し、逆潮流と向かい風が水面に鋭利な三角波を無数に刻む。チルトを上げた艇を、一瞬で宙へ跳ね上げる凶器の海だ。


 プロデビューから、無傷の三連敗。

 初戦の第一マーク手前で桐島の引き波に機首を弾かれ、コントロールを失って失速した瞬間の感触が、今も両腕の奥に沈んでいる。「所詮は特例の再訓練生だ」「教習所のじゃじゃ馬じゃ通用しない」――耳を刺すファンの罵声よりも、あの手応えのない感触の方が、ずっと重く冷たかった。


 毎夜、無人のピットで三十九号機の錆びたカウルにしがみつき、工具を握ったまま朝を迎えた。それでも諦めるという選択肢は、俺の辞書に最初から存在しなかった。


 第九レース、出走直前。俺は迷わずチルトレバーを限界まで押し上げた。「プラス三・〇」。


「正気なの、誠!?」


 一号艇のピットから、同期の實森ゆえの声が響いた。今節、成績不振で地元スポンサーとの契約更新の崖っぷちに立たされている。その瞳に滲む焦燥は、俺の比じゃない。


「この逆流に向かい風よ! 第一マークに届く前に空中分解して沈むわよ!」


「普通に走ってたら、一生あの化け物には追いつけねえ」


 俺はヘルメットのシールドを叩き下ろし、獰猛に笑ってやった。


「瓜生が弾き出した最短の航路へ、この伸び足で一点突破する。持たざるルーキーが王者の首を獲る、唯一の勝機だ」


 四号艇の瓜生俊樹は、隣のピットで無表情に計器モニターを見つめていた。下関の七十二時間分の潮流データを完全解析し、海のうねりが一瞬だけ相殺される「死角」を昨夜、二人で擦り切れるまで確かめた。瓜生は俺のために走るわけじゃない。己が勝つために走る。だがその冷徹な計算の終着点に、俺の求める「光る一本の線」が浮かぶことを、俺たちは信じていた。


 五号艇、桐島徹。コアマブイ値八千、今節十一連勝中のA級王者。展示航走ですれ違いざま、奴が投げつけてきた言葉が胸の奥で燻っている。


『研究させてもらってるよ、命知らずの再訓練生ルーキー


 大時計が始動した。十二秒、五秒。大外六号艇の俺は、助走距離を限界まで確保するため大きく後方へ艇を引く。針が真上を指す――ゼロ!

 スロットルを床まで踏み抜いた瞬間、三十九号機が咆哮した。


 向かい風を胸に受けた機首が激しく浮き上がり、三角波をバウンドしながら水面を飛翔する。マブイの逆流が鼻腔から鮮血を噴き出させ、視界が赤く染まる。激突する海水が防護服を叩きつけるが、俺はステアリングを固定し、荒れ狂う水面を睨み据えた。


 第一ターンマーク。桐島が内側から圧倒的な圧力で他艇を支配し、ゆえの艇を容赦なく水塊の底へ叩き落とす。だがその渦中、瓜生の四号艇が潮流の周期を寸分違わず捉え、鋭く旋回した。


 関門の逆流と瓜生の航跡、そして桐島のマブイが衝突した瞬間――エネルギーが相殺される「計算の結び目」が、コンマ二秒だけ、水面に光る一本の細い筋となって浮かび上がった。


「そこだァァァッ!!」


 コアマブイの千を、限界までシリンダーへ叩き込む。チルト三・〇の暴力的な加速が、大外の死角から爆発した。インから完璧な逃げを図る桐島の航跡が、巨大な壁となって目の前に立ちはだかる。激突必至。


 だが俺は、ハンドルを切らなかった。


「アトモス――ブローッ!!」


 吸気圧の弁を瞬時に強制反転させ、過剰な霊子圧を真上へ一気に排気した。全推進力が「真下」へ叩きつけられる。宙を舞いかけた三十九号機が、水面へと強烈に圧着される。爆発的なグリップが、全身に炸裂した。


 メリメリとカウルが悲鳴を上げ、肋骨に凄まじい衝撃が走る。それでも視界の中心に、波の壁のわずかな隙間が、剃刀一枚分だけ開いていた。


 絶技――『全速・叩き差し』! 


 銀色の機首が、その隙間を切り裂いた。第一マークを先頭で駆け抜けたのは、六号艇、速水誠だ!

 ホームストレッチ。背後から桐島の圧力が迫る。カウルから白煙が上がり、両手の握力はとうに限界を超えていた。それでも指が緩むことはない。


 夕闇が降りる下関の水面に、チェッカーフラッグが翻った。


「六号艇、一着。プロ初勝利!」


 ゴールを越えた瞬間、俺はレバーを握ったまま動けなかった。全身が痺れ、口の中に鉄の味が広がる。三連敗の間、夜のピットで一人工具を握り続けた日々が、一気に胸の奥から込み上げてきた。ヘルメットの奥で、口の端が自然と吊り上がる。


 レース後のピット。ゆえが満身創痍で帰投し、こちらをちらりと見て「……やるじゃない」と吐き捨てるように笑った。その目の奥に、焦燥とは別の、熱いものが光っていた。桐島はカウルを外しながら獰猛な笑みを投げてくる。本物のバケモノに、完全に目をつけられた。


 四位で帰投した瓜生が、静かに歩み寄ってきた。眼鏡を外して拭きながら、一言も喋らない。だがその整った横顔に浮かぶ悔しさは、隠しようがなかった。 


「……計算以上だ」やがて奴は低く言った。「僕の数式の先へ行くとはな」


「お前が死角を作ってくれたから、あの線が見えた。ありがとな」


「僕は僕のために走っただけさ。勘違いするな」


「分かってるよ、相棒」


 夜の整備を終え、管理区域のフェンスを出た。その瞬間、俺の背筋に氷の刃を突きつけられたような悪寒が走った。

 対岸の暗闇の中。漆黒のジャケットを纏った男が、宿舎へ回送される途中の三十九号機へ、静かに超望遠レンズを向けていた。チルト設定の機構、主軸の不自然な溶接痕――上田校長から受け継いだ、この機体特有の「歪み」を、執拗に、正確に記録している。

 男は俺の気配を察したように、一切の感情を排した目でこちらを一瞥した。そのまま下関の夜の人混みへ、溶けるように消える。

 俺は夜風に吹かれる三十九号機を振り返り、バッグの紐を強く握り直した。

 今夜のことは、まだ誰にも話せない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ