デビュー戦
二〇二七年、五月下旬。関門海峡は牙を剥いて吠えていた。
瀬戸内海の穏やかな海水と日本海の外洋が真っ向から衝突する、国内屈指の難水面だ。干満差によって潮流が分刻みで反転し、逆潮流と向かい風が水面に鋭利な三角波を無数に刻む。チルトを上げた艇を、一瞬で宙へ跳ね上げる凶器の海だ。
プロデビューから、無傷の三連敗。
初戦の第一マーク手前で桐島の引き波に機首を弾かれ、コントロールを失って失速した瞬間の感触が、今も両腕の奥に沈んでいる。「所詮は特例の再訓練生だ」「教習所のじゃじゃ馬じゃ通用しない」――耳を刺すファンの罵声よりも、あの手応えのない感触の方が、ずっと重く冷たかった。
毎夜、無人のピットで三十九号機の錆びたカウルにしがみつき、工具を握ったまま朝を迎えた。それでも諦めるという選択肢は、俺の辞書に最初から存在しなかった。
第九レース、出走直前。俺は迷わずチルトレバーを限界まで押し上げた。「プラス三・〇」。
「正気なの、誠!?」
一号艇のピットから、同期の實森ゆえの声が響いた。今節、成績不振で地元スポンサーとの契約更新の崖っぷちに立たされている。その瞳に滲む焦燥は、俺の比じゃない。
「この逆流に向かい風よ! 第一マークに届く前に空中分解して沈むわよ!」
「普通に走ってたら、一生あの化け物には追いつけねえ」
俺はヘルメットのシールドを叩き下ろし、獰猛に笑ってやった。
「瓜生が弾き出した最短の航路へ、この伸び足で一点突破する。持たざるルーキーが王者の首を獲る、唯一の勝機だ」
四号艇の瓜生俊樹は、隣のピットで無表情に計器モニターを見つめていた。下関の七十二時間分の潮流データを完全解析し、海のうねりが一瞬だけ相殺される「死角」を昨夜、二人で擦り切れるまで確かめた。瓜生は俺のために走るわけじゃない。己が勝つために走る。だがその冷徹な計算の終着点に、俺の求める「光る一本の線」が浮かぶことを、俺たちは信じていた。
五号艇、桐島徹。コアマブイ値八千、今節十一連勝中のA級王者。展示航走ですれ違いざま、奴が投げつけてきた言葉が胸の奥で燻っている。
『研究させてもらってるよ、命知らずの再訓練生』
大時計が始動した。十二秒、五秒。大外六号艇の俺は、助走距離を限界まで確保するため大きく後方へ艇を引く。針が真上を指す――ゼロ!
スロットルを床まで踏み抜いた瞬間、三十九号機が咆哮した。
向かい風を胸に受けた機首が激しく浮き上がり、三角波をバウンドしながら水面を飛翔する。マブイの逆流が鼻腔から鮮血を噴き出させ、視界が赤く染まる。激突する海水が防護服を叩きつけるが、俺はステアリングを固定し、荒れ狂う水面を睨み据えた。
第一ターンマーク。桐島が内側から圧倒的な圧力で他艇を支配し、ゆえの艇を容赦なく水塊の底へ叩き落とす。だがその渦中、瓜生の四号艇が潮流の周期を寸分違わず捉え、鋭く旋回した。
関門の逆流と瓜生の航跡、そして桐島のマブイが衝突した瞬間――エネルギーが相殺される「計算の結び目」が、コンマ二秒だけ、水面に光る一本の細い筋となって浮かび上がった。
「そこだァァァッ!!」
コアマブイの千を、限界までシリンダーへ叩き込む。チルト三・〇の暴力的な加速が、大外の死角から爆発した。インから完璧な逃げを図る桐島の航跡が、巨大な壁となって目の前に立ちはだかる。激突必至。
だが俺は、ハンドルを切らなかった。
「アトモス――ブローッ!!」
吸気圧の弁を瞬時に強制反転させ、過剰な霊子圧を真上へ一気に排気した。全推進力が「真下」へ叩きつけられる。宙を舞いかけた三十九号機が、水面へと強烈に圧着される。爆発的なグリップが、全身に炸裂した。
メリメリとカウルが悲鳴を上げ、肋骨に凄まじい衝撃が走る。それでも視界の中心に、波の壁のわずかな隙間が、剃刀一枚分だけ開いていた。
絶技――『全速・叩き差し』!
銀色の機首が、その隙間を切り裂いた。第一マークを先頭で駆け抜けたのは、六号艇、速水誠だ!
ホームストレッチ。背後から桐島の圧力が迫る。カウルから白煙が上がり、両手の握力はとうに限界を超えていた。それでも指が緩むことはない。
夕闇が降りる下関の水面に、チェッカーフラッグが翻った。
「六号艇、一着。プロ初勝利!」
ゴールを越えた瞬間、俺はレバーを握ったまま動けなかった。全身が痺れ、口の中に鉄の味が広がる。三連敗の間、夜のピットで一人工具を握り続けた日々が、一気に胸の奥から込み上げてきた。ヘルメットの奥で、口の端が自然と吊り上がる。
レース後のピット。ゆえが満身創痍で帰投し、こちらをちらりと見て「……やるじゃない」と吐き捨てるように笑った。その目の奥に、焦燥とは別の、熱いものが光っていた。桐島はカウルを外しながら獰猛な笑みを投げてくる。本物のバケモノに、完全に目をつけられた。
四位で帰投した瓜生が、静かに歩み寄ってきた。眼鏡を外して拭きながら、一言も喋らない。だがその整った横顔に浮かぶ悔しさは、隠しようがなかった。
「……計算以上だ」やがて奴は低く言った。「僕の数式の先へ行くとはな」
「お前が死角を作ってくれたから、あの線が見えた。ありがとな」
「僕は僕のために走っただけさ。勘違いするな」
「分かってるよ、相棒」
夜の整備を終え、管理区域のフェンスを出た。その瞬間、俺の背筋に氷の刃を突きつけられたような悪寒が走った。
対岸の暗闇の中。漆黒のジャケットを纏った男が、宿舎へ回送される途中の三十九号機へ、静かに超望遠レンズを向けていた。チルト設定の機構、主軸の不自然な溶接痕――上田校長から受け継いだ、この機体特有の「歪み」を、執拗に、正確に記録している。
男は俺の気配を察したように、一切の感情を排した目でこちらを一瞥した。そのまま下関の夜の人混みへ、溶けるように消える。
俺は夜風に吹かれる三十九号機を振り返り、バッグの紐を強く握り直した。
今夜のことは、まだ誰にも話せない。




