卒業試験、不死鳥の背中
二〇二七年、四月。琵琶湖の夜明けは、研ぎ澄まされた刃の冷たさをしていた。
比叡おろしが鉛色の湖面を激しく叩き、容赦ない飛沫が肌を切り裂く。一年前、この暴力的な風に怯えていた俺――速水誠は、今は違う。冷気すら、再戦を焦がれる好敵手の呼吸のように愛おしかった。
数千人の志願者が集った大宮機艇教習所。地獄の一年を耐え抜き、この卒業記念レースのピットに立てたのはわずか五名。絶対王者・山崎征也。執念で食らいついてきた守屋あおいと實森ゆえ。電算の瓜生俊樹。そして俺と三十九号機だ。一年間、共に水面を叩きながら互いを削り合ってきた、五つの魂だった。
俺たちの前に立ちはだかるのは、上田通彦。かつて世界を獲りかけた伝説のレーサー。その背後に浮かぶ漆黒のモンスターマシン、"フェニックス・零"は、アイドリングだけで湖面を不気味に凹ませる禍々しい重圧を放っていた。
「第一マークを旋回し終えるまでに、一人でも私の前に出れば全員合格。誰一人出られなければ、全員退所だ」
「チルトは本当に『プラス三・〇』で行くのか」ピットで調整する俺に、瓜生が眼鏡の奥から鋭い視線を注いだ。「最初のターンで転覆するぞ」
「一年前の試走会で一度死にかけた設定さ。だからこそ、校長の計算の枠外へ飛び出せる」
「ふん」瓜生は獰猛に唇を歪めた。眼鏡の奥に、かつての冷徹な電算マシーンの影はなく、青い炎が宿っている。
「スリップストリームのチャンスは一度だけだ。ボイラーが臨界を超えたら――お前一人で地獄の底まで突っ走れ」
「上等だ。行こうぜ、相棒」俺は三十九号機のカウルを叩いた。
五艇の爆音が琵琶湖を蹴り裂いた瞬間、前方から天災が降り注いだ。上田の絶技〈ゴースト・スライド〉。漆黒のマブイが水面の摩擦を完全に無効化し、フェニックス・零が音もなくトップスピードへ到達、全艇を瞬時に置き去りにする。あおいとゆえの艇が凶悪な引き波に翻弄されて失速し、山崎の艇さえも航路を物理的に阻まれた。
だが俺の魂は折れなかった。チルト三・〇の三十九号機が、直線に入った瞬間、飢えた獣のように加速する。ハンドルを握る両腕の筋肉が引きちぎれんばかりのGに悲鳴を上げる中、俺はマブイではなく指先の肉で、機体の「鉄の叫び」を聴き取った。
一年間、瓜生と擦り切れるほど見込んだ上田の流体の癖。完璧に見える航跡にも、波がぶつかりエネルギーが相殺される、数センチの「引き波の谷間」が必ず生まれる。第一マーク手前三十メートル。しかし旋回力が足りない。
「誠ッ!」無線の向こうで瓜生が叫んだ。「僕の計算をドブに捨ててでも、お前をそこへ押し込んでやるッ!」
瓜生の艇が、自滅覚悟の猛烈なカットインを敢行した。上田の引き波へ、真横から己のボートを衝突させるようにして、一瞬だけ水面のうねりを踏み潰す。カウルが激しく弾け飛び、瓜生の艇が失速していった。
――静寂が、一瞬だけ落ちた。
相棒が命ごと開けた、コンマ数秒のデッドスペース。
三年前、決勝で俺は誰かを沈めた。その重さをずっと抱えて走ってきた。やっと、胸を張れる。
「おおおおおッ!!」
アトモスを全開放し、すべての霊子エネルギーをボートの底面へ集中させた。水面を強制的に吸い付け、曲がるはずのない車体を内側へ捩じ込む。鋭利な楔となった三十九号機が、上田の懐へ肉薄した。
完璧だった王者の旋回軸が、俺の放った殺気によって、わずか数ミリだけブレる。
その隙間へ、迷いなく山崎が飛び込んできた。奴の顔に余裕も慢心もなかった。ただ純粋な、本物の闘志だけがあった。続いてあおいが、ゆえが、満身創痍の瓜生が雪崩れ込む。
五つの魂が、同時に王の鼻先を捕らえ、第一マークを駆け抜けた。
重厚なブザーが、琵琶湖に響き渡った。合格のファンファーレだ。
上田が左頬の古傷を満足げに歪め、猛々しく笑った。「合格だ。クソガキども――最高のターンだったぞ」
雲を割った猛烈な陽光が、琵琶湖を一面の輝きに染め上げた。
俺はピットへ戻り、パチパチと熱を帯びた三十九号機のボルトをもう一度だけ締め直した。戦いのためではない。命を預かってくれた相棒への、別れの儀式だ。
「プロで賞金王になったら、お前と同じ、最高のエンジンを組んでやる。少しだけ待っててくれよ」
ハイドロバルブが、シュウと小さく蒸気の息を吐いた。
「浸っている暇はないぞ、誠」半壊した艇を牽引しながら、瓜生が誇らしげな顔で歩いてくる。「僕の電算を狂わせたのは、世界広しといえど、お前と三十九号機だけだよ」
俺はヘルメットを脱ぎ、昇る太陽に向かって不敵に笑った。
「これからプロの舞台で、もっと狂わせてやるよ。行くぜ、瓜生」
爆発的な陽光が、修羅の海へ漕ぎ出す俺たちの背中を、どこまでも眩しく照らし出していた。




