模擬レース
四月の琵琶湖は、夕陽に焼かれた鉄の肌をしていた。比叡おろしが容赦なく吹き荒れ、湖面がどす黒いオレンジに染まっている。特設コースはもはや訓練場ではない。未熟な候補生を次々と呑み込む、淡水の戦場だ。
管制塔から冷え切った声が轟いた。
「本日の試走会は規則第十八条に則り、自力帰投不能となった艇はいかなる着順であれ"失格"かつ"即時退所"とする」
六号艇の俺、速水誠は、カウルに深く身を伏せて水面を睨んでいた。グリップから両腕、五臓六腑へと伝わる三十九号機の不規則な震えは、檻を噛み砕こうとする飢えた獣の呼吸そのものだ。昨夜、上田校長の工具箱を借りて瓜生と二人で叩き直したクランク軸の感触が、掌の奥に生きている。
「第一班、ピット離れ!」
スタートのブザーと同時に、琵琶湖が爆ぜた。一号艇、山崎征也。コアマブイ「一万」の奔流が最新鋭のボイラーへ収束し、湖面を暴力的に支配する引き波を生む。後続艇が恐怖でスロットルを絞る中、三十九号機は断末魔の金属音を撒き散らしながら咆哮した。
「瓜生、ルートをよこせ!」
作戦通り、五号艇の瓜生俊樹が俺の直前へ滑り込んできた。眼鏡の奥の瞳を凍りつかせた顔で、マブイゼロの電算頭脳がリアルタイムで弾き出したラインをトレースする。奴の走りが引き波のクッションとなり、三十九号機への衝撃を最小限に削ぎ落とす。
「計算したぞ、誠! 山崎の引き波の渦底に、わずか一瞬だけ真空の死角が生まれる。そこしかない!」
三年前の決勝が頭を過ぎった。圧倒的な出力の前で、俺は誰かを沈めた。その重さを今も捨てられない。だから勝つ。その重さごと、この水面を突き破る。
「もっと喰え……俺の命ごと、すべてを持っていけ!」
保有コアマブイはわずか「一千」。だがそれを毛髪より細く研ぎ澄まし、機体の狂った振動の波形へ真逆のパルスとして叩き込む。砕けそうな金属を、己の魂の質量で物理的に繋ぎ止める狂気の領域だ。
第一ターンマークが眼前に迫る。山崎は膨大なマブイをボイラーへ注ぎ込み、暴力的なパワーで全速旋回していく。誰もが勝負は決したと確信した刹那、俺はスロットルを限界まで引き絞り、ノーブレーキで闇の死角へと突っ込んだ。
――世界から、音が消えた。
三十九号機は水面を引き裂きながら、アトモスで山崎の引き波そのものを吸い込み、己の推進力へと変換した。漆黒の脈動が、奴の波を内側から爆破する。山崎艇のすぐ真横を、剃刀のようにすり抜ける。
カウル越しに、驚愕で目を見開く天才の顔が見えた。余裕の仮面が剥がれ落ち、初めて剥き出しになった生の表情。奴の口が音のない言葉を形作っているのが見えた。問いかけるように。すがりつくように。
「――遅いな、山崎」
第一マークを立ち抜けた瞬間、世界の序列がひっくり返った。
だが代償は大きかった。残り五十メートル、主軸が千切れかけた悲鳴が掌へ伝わる。俺は最後の一滴のマブイをタービンへ直に注ぎ込んだ。三十九号機がその生涯で最も凄絶な咆哮を上げ――ハナ差、山崎を突き抜けた。
直後、ドゴォンと黒煙が噴き上がり、すべての動力が完全停止した。推進力を失った艇がピットへ激突するように滑り込み、俺は前方に投げ出される。口の中に鉄の味が広がった。
『六号艇、自力帰投不能。着順「無効」。失格』
管制塔の無機質な声が、静まり返ったスタンドに響く。
沈黙が、重く落ちた。
「計算外だよ……! お前の狂気が、僕の数値を完全に壊した」
瓜生が俺を力強く抱きとめた。眼鏡の奥の目が、珍しく熱く濡れていた。マブイを持たないこいつが、生涯決して体験できないものを、俺が代わりに体現した。たぶんそういうことだ。
上田校長が重厚な足音で歩み寄り、煙を上げる三十九号機に無骨な手を置いた。左頬の縫合痕が、夕闇の中で不気味に引き攣っている。
「機体の金属疲労を己のマブイで繋ぎ止めるなど、からくりと人間を混同するな。レーサーとしての死を早めるだけの狂気だ」
一拍の沈黙。隻眼が俺を一瞥し、背を向けながら続いた。
「今夜の夜間整備を返上しろ。工具を持って、私の部屋へ来い。瓜生、電算室の鍵も開けておく。三十九号機のクランク軸を、今度は貴様たちの手で叩いて直すぞ。……あれは、かつて私が世界を獲り損ねた時の、私の半身だ」
記録は失格。公式スコアは無効。
だが俺の掌には、王の喉元に牙を届かせた確かな感触と、三十九号機が最後に残した熱い痛みが、消えない刻印のように刻まれていた。
ピットの遙か向こうで、山崎が白くなるほど拳を握りしめ、俺を睨みつけている。
その目の奥に揺れるものが――恐怖なのか、渇望なのか。山崎自身にも、まだ分かっていなかった。




