地獄の入所式
この世界には、「マブイ」と呼ばれるエネルギーが存在する。
古来より、それは生命の源、あるいは魂の灯火として語られてきた。だが、科学が飛躍的に発展した現代において、マブイの定義は塗り替えられた。
マブイとは、からくりを動かすための動力であり、競技者が己の限界を超えて叩き出すパフォーマンスの「質量」そのものである。
かつて忍術やトリガーの概念を育んだこの地で、今、人々は「からくりスポーツ」という新たな戦場に熱狂している。いかに効率よく体内のマブイをからくりへ流し込み、極限の出力を引き出しつつ、己の枯渇を制御するか。
これは、魂を削り、数字を競い、誰よりも速く(強く)頂点を目指す者たちの記録である。
――さあ、マブイを燃やせ。勝敗の向こう側へ。
比叡おろしが湖面を切り裂いていた。夜明けの琵琶湖は黒く冷たく、底なしの墓場のように凪いでいる。桟橋の機艇がハルをぶつけ合い、鉄の悲鳴と潤滑油の腐臭が凍えた空気に滲んだ。大宮機艇教習所。全国から四十名だけが潜り抜けた、霊子機艇レースの屠殺場だ。門の石碑には歴代の殉職者の名が刻まれ、その溝には乾いた湖塩が白くこびりついている。
「手が震えてるぞ、瓜生」
整列の最中、隣の少年に声をかけた。瓜生俊樹。彫刻のような横顔は死人のように青白く、この場に渦巻く猛者たちのマブイの圧を微塵も感じていないようだった。当然だ――コアマブイ、ゼロ。霊子エンジンに叩き込む精神エネルギーを持たない異端児。だが奴の頭脳は化け物だった。機体構造の電算能力なら、どんな天才も敵じゃない。
「震えてない」瓜生は淡々と言った。「マブイがなければ、冷たいだけだ。――それより、お前のアトモスが漏れてる。周りの空気が軋んでいるぞ」
指摘通りだった。胸の奥で三年間圧縮し続けたマブイが、この冷気に反応して滲み出している。あの決勝日――すべてを湖底に沈めたあの日の怒りが、消えることなく俺の中で燃え続けているのだ。
その時、炎の波が押し寄せた。紫電の余波が湖面を爆ぜさせ、周囲の候補生が本能的に膝を折る。
山崎征也。コアマブイ、一万。この教習所の絶対王者だ。奴は俺のアトモスの異臭を嗅ぎつけたように立ち止まり、腐った魚でも検分するような目を向けた。
「一千の雑魚に、零の木偶か。マブイの出力こそ絶対のこの水上で、薪のない竈を担いで来るとは笑えない冗談だ。身の程を弁えろ」
胸の奥で何かが爆ぜた。
「出力だけの能無しが。そのデカいマブイでボイラー焼き切る前に、水面で会おうや。その王座ごと、狭い航路で粉砕してやるよ」
「……口の減らない虫ケラが」
山崎の眉がピクリと動く。その刹那、湖底から重低音が響き、壇上に上田通彦が現れた。左頬には世界大会の空中分解事故で刻まれた縫合痕が、黒い大百足のように這っている。隻眼が全員を貫いた。
「貴様らに与えるのは、不公平なエンジンと、己の手で叩き出すプロペラのみだ。そして一つ教えておく」
上田の視線が、格納庫の奥をちらりと掠めた。
「高出力のマブイを積もうと、バルブ一ミリの狂いで機体ごと爆散し、琵琶湖の藻屑となる。俺が身をもって証明した。魂をこの鉄に売り渡す覚悟のない者は、今すぐ帰れ」
エンジン抽選が始まった。山崎が引き当てたのは最新鋭の「七十四号機・雷鳴型」。奴がマブイを込めた瞬間、高周波の唸りが場全体を圧し潰す。完璧な王者の証明だった。
そして俺の番が来た。
木札を掴み、番号を告げた瞬間――上田の隻眼が、わずかに揺れた。
格納庫の奥から、作業員が顔面蒼白で引きずり出してきたのは「三十九号機」。その一言で、場内に戦慄と憐れみの混じった悲鳴が上がった。赤錆に塗れたカウル。幾度もの大破を物語る歪な溶接痕。かつて五人のエリートを廃人にし、湖底へ引きずり込んだ呪われた鉄の棺桶。そして上田校長自身の、若き日の愛機だ。
嘲笑が湧き上がる中、瓜生だけが静かに囁いた。
「計算が終わった。この機体は壊れていない。ただ誰も扱えなかっただけだ。五人の廃人は皆、出力過多で圧を制御できなかった。だがお前のアトモスは逆流している――俺が観測した中で唯一の逆流型だ。この呪いすら燃料に変えられる。いけるぞ、誠」
脳髄がジリジリと痺れた。
俺は三十九号機に歩み寄り、冷え切った鉄肌にゆっくりと掌を置いた。錆と油と、長い眠りの匂い。五人の廃人を飲み込んできた化け物は、今は静かに死んでいた。
「待たせたな。……俺の全部を、お前にやる」
圧縮していたマブイを、一気に全開放した。
三年分の不条理への怒り。あの決勝日の無念。燃え尽きることのなかった狂気の情念。それらが黒い奔流となって、鉄の魂へ流れ込む。
――静寂。
一秒。
ガガガ、と凍りついたエンジンが、俺の心臓の鼓動と完全に同期した。
ドンッ!
炸裂した重低音が湖面を割った。吸気口から吹き上がる漆黒の霊子圧が、比叡おろしを真正面から力任せに押し返す。講堂のガラスが一斉に悲鳴を上げ、山崎の高慢な紫電が色褪せた火花のようにかき消された。
「……やっと起きたか、相棒」
錆びた鉄の化け物が、俺の腕の中で確かに呼吸している。
山崎の顔から余裕が消えた。上田が獰猛に口元を歪めた。
この呪われた機体となら、どんな神でも食い殺せる。
「行くぞ」
ここからが――俺の、本当の再起だ。




