第49話:赤城おろしの洗礼、群馬の「光」と岡山の「鬼」
からくり競艇の歴史において、かつて存在し、現在は「特例レース」においてのみ許される聖域がある。それが**「持ちペラ制度」**だ。
これは、運営から支給されるモーターとは別に、レーサー個人が自費で購入し、自らの手で叩き上げた自分専用のプロペラ(ペラ)を使用できる制度である。
機体の「翼」:エンジンがどれほど強力でも、そのパワーを水面に伝えるペラの形状が不適切であれば、機体はただ震えるだけの鉄塊に過ぎない。
ミリ単位の聖域:レーサーはハンマー一本で金属の表面を叩き、髪の毛一本分よりも薄い歪みを作り出す。それによって「直線重視」か「加速重視」か、機体の性格を決定する。
マブイの依代:からくり機艇におけるペラは、レーサーのマブイを機体に伝えるための「術式」としての役割を果たす。
「持ちペラ」とは、レーサーが自らの魂を削り、金属に焼き付けた分身に他ならない。
2029年2月10日。前橋(桐生競艇場)。
住之江の呪縛を断ち切った誠が降り立ったのは、日本唯一の全天候型ドーム競艇場――通称「前橋ドーム」である。
「誠さん! 兄から聞いてますよ。住之江での優勝、お見事でした。でも、ここは私のホームですから」
爽やかな笑顔で迎えたのは、地元群馬支部のアイドル、山崎光。兄・征也譲りの端正な顔立ちだが、その背後に漂う20,000のマブイは、兄よりも鋭利な「風」の性質を帯びていた。彼女の機体「ウィンド・ダンサー」は、ドーム内に渦巻く不規則な気流を「吸い込む」ことで、爆発的な加速度に変換する独自の空力設計を誇る。
そしてもう一人。ピットの重鎮席で、静かにペラを叩いていたのは、岡山のレジェンド・河田元気。
「あおいちゃんが山口に行って、岡山は少し寂しくなったがな。代わりに、あんたがどれだけ『元気』がいいのか、試させてもらうよ」
河田の持つ85,000のマブイ。それは「絶対逃走」と呼ばれる鉄壁の防御に注がれていた。マブイを不可視のシールドに変え、一切の「差し」を無効化する岡山の壁。誠の前に、また一つ巨大な山が立ち塞がる。
誠が39号機を水面に降ろすと、膝元のシロが不安げに鼻を鳴らした。
「どうした、シロ。……そうか、ここは空気が薄くて、マブイの『燃焼』が不安定なんだな」
前橋は標高が高く、気圧が低い。さらにドーム内は乾燥し、マブイの伝達効率が極端に変化する。誠の「1,000マブイ」は深刻な出力不足に陥っていた。
翌2月11日。予選第12R。
「赤城おろし」がドームの壁を叩くピット裏で、二人の乙女が激しく火花を散らしていた。一人は山口から追ってきた愛弟子の野田あかり。もう一人は地元群馬の令嬢、山崎光である。
「ちょっと光ちゃん? さっきからウチの師匠(誠)にアドバイスしすぎじゃないっすか?」
あかりが金髪をかき上げ、得意のギャルスタイルで牽制する。
「あら、あかりさん。誠さんのマブイが苦しんでいたから、地元の者として助言をしただけですよ。……それに、誠さんの『白銀』は、前橋の乾いた空気にとても映えると思いませんか?」
「映えるとか関係ないっす! 師匠を一番分かってるのは、首席弟子のウチなんですから!」
あかりは誠直伝の「省エネ理論」を盾に詰め寄る。
「光ちゃんの『風を吸い込む旋回』なんて、誠さんの繊細なバランスを壊しちゃうかもしれないでしょ!」
「ふふ、過保護すぎますわ。彼はもっと、この厳しい気流に揉まれて『光る』べきお方。……次のレース、外からじっくり観察させていただきますわね」
光の瞳が、鋭い風の属性で輝いた。あかりも負けじと、15,000のマブイをギャル魂と共に燃え上がらせる。
(……誠。女の戦いは、住之江の呪いよりよっぽど恐ろしいな。俺は避難しておくぞ)
シロが呆れたように鼻を鳴らしたその時、当の誠が「あかり、次のペラ設定なんだけど……」と無邪気に顔を出した。
「「誠さん(師匠)!!」」
二人の声が重なり、ドーム内に響き渡る。誠は一瞬で血の気が引き、「……え、あ、あおいを呼んできてもいいかな?」と後ずさりした。前橋の低気圧よりも激しい「女子の気流」が、誠を飲み込もうとしていた。
【予選第12R 出走表】
河田 元気(岡山):絶対逃走の1コース。
山崎 光(群馬):気流吸入旋回の2コース。
速水 誠(山口):出力不足に悩む3コース。
山崎 征也(群馬):援護の4コース。
アルバート(留学生):乾燥対策「サボテン戦法」。
野田 あかり(山口):師匠を護る6コース。
「大時計、ゼロ!」
誠はコンマ10のスタート。しかし、低気圧の影響で機体の伸びが甘い。
1コースの河田がマブイの「絶対障壁」を展開し、逃げ体制に入る。そこへ2コースの山崎光が、ドーム内の気流を味方につけた「真空の旋回」で肉薄する。
「誠さん、風の中に沈みなさい!」
光が放つ風のマブイが、誠の39号機の揚力を奪い、逆に水面へと押し付ける。
だが、誠はあかりと共に、睡眠時間を削って叩き上げた「低圧環境特化型・持ちペラ」を信じ、シロと同期した。
「シロ、出力は捨てろ! 風を『切る』んじゃなく、風の『隙間』を滑るんだ!」
誠の白銀のマブイが、光の放つ風の奔流と、河田の鉄壁の間を、細い一本の糸のように縫っていく。
前橋ドーム、標高120メートル。
物理的な出力不足を、誠はあかりへの信頼と、シロとの絆で埋めようとしていた。




