日常の境界線
新設SG「バトルトーナメント」の激しい咆哮が完全に消え去り、ボートレース住之江のピットには冷え切った静寂が戻っていた。ナイターカクテル光線はすべて消灯され、冬の名残を孕んだ鋭い月だけが夜空に静かに浮かんでいる。
薄暗い山口支部の専用整備場。俺――速水誠は、泥と油で汚れた三十九号機のカウルを、タオルで黙々と磨き続けていた。住之江の硬い淡水とコンクリート水面を切り裂いた、あの白銀の結晶の凄まじい重みだけは、未だに俺の腕の筋肉に焼き付いていた。
「……やり遂げたのか、俺は」
自らの両手を見つめる。三年前に水底へ沈めたあいつへの借りを、今夜の一着で少しは返せた気がした。かつて旋回の衝撃でガタガタと震えを止められなかった指先が、今夜は不思議なほど、静かに凪いでいた。
足元では、スーが工具箱の隅っこでフガフガと鼻息を鳴らしながら眠っている。「お前も大変だったよな」と小さく声をかけると、スーは目を開けないまま「フンッ」と鼻を一吹きし、短い尾をコンクリート床に一度だけ力強く叩きつけた。
最高級の骨付き肉を要求する、いつもの生意気な返事だった。
整備場の重い鉄扉が静かに開き、ソースの甘く香ばしい香りが夜の空気へ流れ込んできた。少し大人びた私服のワンピース姿の守屋あおいが、白い湯気を立てる紙袋を大切そうに抱えて立っていた。
「バカ誠。いつまで機体と見つめ合ってるのよ。住之江名物のたこ焼き、まだ熱いから」
あおいは俺のすぐ隣に座り込み、慣れた手つきで爪楊枝に刺したたこ焼きを、俺の口元へと差し出してきた。口いっぱいに広がるソースの香りが、戦いで張り詰めていた俺の全身を滑らかに緩めていく。
「優勝したんだから、もう少しマシな顔すれば?」
「大内さんやアルバートみたいな化け物と真っ正面から戦った後だと、こうして座ってるだけで、なんだか夢を見てるんじゃないかって思うんだよ」
あおいは少しだけ頬を赤く染め、俺の口元のソースをミニタオルで拭きながら、どこか寂しげに笑った。
「あんたさ、あんたが一人で世界のSSの天井なんてそんな高いところへ行ってしまわないように……こうして手をつないで、地上の泥まで引きずり下ろすための最強の防波堤。それが私よ」
あおいの小さくて不器用な手が、俺の油まみれの指先を、そっと上から包み込んできた。時速二百キロを超えるマーク際の決戦で交わしたものよりも、ずっと穏やかで、確かな人間の体温がそこにはあった。
「あんたがどんなに白銀の刃になっても、その根っこが誰かを守りたいとか、アイツに負けたくないとか、そういう泥臭い人間である限り……私、絶対に支えてあげる」
「……あおい」
言葉はそれ以上必要なかった。住之江の冷たい夜風と、足元のスーの愛らしい寝息と、繋がれた指先の熱。俺はあおいの手を、壊さないように強く握り返した。
「明日、何食べようか」
「あんたの胃袋は私が管理してあげるわよ。大阪のお好み焼きの本当の焼き方でも、一から教えてあげようかな」
あおいのいつもの不敵な笑みを見て、俺は心の底から笑うことができた。
その時だった。
工具箱の横で丸まっていたスーが突然、跳ね起きるようにして立ち上がり、喉の奥からこれまで聞いたこともないような、低く、狂暴な威嚇音を放ったのだ。俺とあおいは一瞬で笑顔を消し、互いの顔を見合わせた。
窓の外で、緑色の妖しい霊子光波が不気味に明滅した。あの丸亀で見た、アルバートの錬金結晶と同じ色だ。
「……今の、光……?」
あおいが整備士としての鋭い本能を剥き出しにして、弾かれたように立ち上がる。外の暗い桟橋の足元から、濡れた巨大な肉塊が蠢くような、生理的な嫌悪感を伴う金属蒸気音が響いてくる。
スーが俺の足元で、低く、力強く唸り続けていた。




