聖地のケージ
大阪府大阪市住之江区――ボートレース住之江。
ここを制さずして、真の王者を名乗ることは許されない。工業用水を大量に湛えた極めて硬い淡水。塩分の浮力は一寸たりとも期待できず、機体の総重量とレーサーの体重がダイレクトに水面へと突き刺さる。
さらに、コンクリートの巨大な消波壁に四方を囲まれた走路から、先行艇の引き波が跳ね返り、いつまでも消えない三角波の罠となる。超高照度のナイターカクテル光線が淡水の鏡面に乱反射し、無数の「光の剣」となってレーサーの視神経を焼き切る。
ここで勝つために必要なのは、最速の称号ではなく、壁際の死線において自らのブレない芯を保ち続ける不屈のマブイだ。
二〇二九年、三月下旬。春一番が吹きすさぶボートレース住之江のピット裏に、四つのマブイの血統が集結していた。
難波の地獄から這い上がってきた白銀の覇者・速水誠。父の遺産を受け継ぎ無響の透過をさらに深化させた・瓜生俊樹。守屋グループの精密な知略を山口に注ぎ込む・守屋あおい。そして、琵琶湖の大宮教習所で上田校長による愛機の再調律を終え、かつての傲慢さを完全に捨て去り、上田校長の紹介という縁で山口支部に合流した元・最高位SS・大内胤賢。全国の熱きファンたちは畏敬の念を込めて彼らを「山口四天王」と呼んでいた。
「山口支部の皆さん、ようこそ聖地・住之江へ。……ここはな、ただ最速を誇るだけやなくて、最悪のコンクリートの罠を想定しきった奴だけが、最後に笑って生き残る場所やで」
大宮教習所での大内の復帰テストで審判を務めていた大阪支部のエース女子・西村唯さんが、俺――速水誠の青いジャージを獲物の喉元を狙う眼光で射抜いた。
「速水誠。あんたの白銀のダイヤモンド、第一マークの跳ね返り波で粉々に削り取ってやるから覚悟しぃや」
その斜め後ろで、女帝・坂田結衣の姐さんが腕を組んでガハハと豪快に笑い、足元ではフレンチブルドッグの小鉄がスーを激しく挑発するようにウゥゥと低く喉を鳴らしていた。
だが、異様な緊張感の正体はそれだけではなかった。琵琶湖の大宮教習所から俺の白銀を追って現れた、海外の先端特区ギルドから送り込まれた大型留学生――アルバート・マッキントッシュが、愛機「サンフラワー・バースト」の横で、禍々しいハーブの香りをピット裏に漂わせながら、赤く不気味に発光するバイオカプセルの種を指先で選別していた。
「ハーイ、誠! 住之江の硬い淡水、私の有機テクノロジーで完璧に書き換えてあげます!」
特殊な排気バルブの奥へとカプセルを放り込んだ瞬間、排気口から凄まじい辛味成分を含んだ紅い蒸気が爆発的に噴き出した。霊子ボイラーが超臨界状態の「錬金反応」を引き起こし、機体後部のステップから、禁断の錬金属性によって排出された金属ナノ粒子が——高密度な流体プラズマ結晶の構造体となって、紫紺の水面をのたうち回り始めたのだ。
「これまでの属性競艇は終わりです! これからは生態系の変質を伴う、私の錬金競艇の時代!」
SG「バトルトーナメント」――一発勝負、上位三着以内に入らなければその場で即座に予選敗退。敗者に翌日のリベンジはない。俺は最悪の大外「六号艇・六コース」を引き当てていた。
六コースから全速で仕掛けるか、三着を拾いにいくか。その選択が脳内を巡った瞬間だった。
インカムの奥から、ケージの影で寒風に震えながら待つスーの「フガッ!!」という力強い呼吸の脈動が、ダイレクトに俺の脳髄へと鳴り響いた。
丸亀で時速二百十五キロを叩き出した、あの山口の誇りの結晶だ。守りに入るな。大外から、お前自身の魂の血管をすべてハイドロに循環させて、全速力で最短距離の線の真ん中をブチ抜いてみせろ。
「……悪い、スー。俺、またバカな計算をしかけてたよ。分かった、最初から全速力で行く!!」
「――大時計、始動ッ!!」
白針がゼロを刻む。一コースから西村唯さんが住之江のコンクリート壁から跳ね返ってくる三角波を、自らの【機巧属性】によって完璧に自艇の旋回レールとして利用する、凄まじい精度のイン逃げを仕掛ける。四コースからは大内胤賢が、再編された超高周波振動によって周囲の引き波の流体分子構造を粉砕しながらスリットを突き抜ける。
そして三コースのアルバートが【錬金属性】のマブイを完全解放した瞬間、彼のステップから住之江の淡水へと放たれた排気ナノ粒子が、硬い淡水分子と磁気結合を起こし、巨大な植物の蔦のような高密度流体結晶へと変質を遂げた。その緑色に発光する流体の蔦は、大外六コースから突っ込んできた三十九号機の舳先を塞ぐようにして、住之江のコンクリート護岸の鉄筋へと強烈に磁気吸着し、水面上に巨大な「流体の檻」を形成したのだ。
「何だこれ……!? 流体の蔦が、三十九号機の右舷ハイドロエッジを、物理的に絡め取ろうとしてるのか!?」
「アハハ! 住之江の硬いコンクリート壁は、植物の根を張るための最高の支えです!」
西村唯の堅実なる「地(機巧)」、大内胤賢の進化した「天(氷極)」、アルバートの暴走する「生(錬金)」。三つの異質な超高密度パワーの結界が、大外六枠から突っ込んできた誠の一千の刃を、コンクリート壁の最外周へと封じ込めにきた。
「スー、三十九号機……! こんな錬金の檻なんて——俺たちの不壊の白銀の結晶で、最短距離の真ん中から、真っ正面から突き破るぞぉぉぉーーーッッ!!」
誠の一千の「不壊の魂」の蒼白の閃光が、アルバートの放った緑色の流体結晶へと、第一ターンマークの頂点で、真正面から激しく激突した。
からくり機艇の聖地・住之江の冷たい夜の底が、ハバネロの赤き排気流の蒸気と凡人の宿した白銀の閃光によって、歴史にない極限死闘へと、今、激しく塗り替えられようとしていた。




