第43話:白嶺の託宣、そして大村を裂く「全速の旋風」
和久田新一が「重力の覇者」と呼ばれるようになったのは、25年前の浜名湖での悲劇に端を発する。
当時、和久田には将来を誓い合った恋人がいた。名は結城美雨。彼女もまた、将来を嘱望された華やかな女子レーサーだった。美雨の走りは「空を飛ぶ」と形容されるほど軽やかな全速捲り。和久田はその背中を追い、彼女が作る「風」の中にいる時間が、何よりも好きだった。
しかし、雨の浜名湖。美雨の機体は加速の頂点で突風に煽られ、揚力を得すぎた機体は制御を失って防波堤へと激突した。爆散する火花の中、彼女のマブイは空へと霧散し、二度と戻ることはなかった。
「……飛ぶから、失うんだ」
愛する者が空に溶ける瞬間を特等席で見てしまった和久田は、その日から「揚力」を憎んだ。彼はマブイをすべて「下」へと向け、水面をコンクリートのように固め、地を這うような走法を完成させた。彼が誠に放った「空へ逃げるのは弱さだ」という言葉は、かつての自分自身、そして守れなかった美雨への、血を吐くような自戒だったのである。
2028年9月21日。大村競艇場、優勝戦1時間前。
カクテル光線に照らされたピットは、異様な静寂に包まれていた。
誠は一人、39号機の最終調整に没頭していた。あおいと共に三日三晩、不眠不休で叩き上げた**「水銀のドリル(アマルガム・ペラ)」**。和久田が硬質化させる「氷の水面」を物理的に削り、穿つための切り札だが、その極端なピッチ(翼角)は機体への負荷が凄まじい。
「……マブイ石の出力をあと5%上げるべきか。それとも、安定を取るべきか……」
迷いの中、誠の手が震えたその時だった。
「……誠。迷うな。お前の1,000は、もう『数』ではない」
瑞々しい少年の透明感を含んだ声が、直接脳内に響いた。顔を上げると、そこには誰もいない。ただ、作業台の横に座り、白銀に輝く瞳で自分を見つめる愛犬・シロがいた。
「シロ……今、喋ったのか?」
シロは瞬きを一つした。からくり競艇公式YouTubeチャンネル「カササギ」の2,000万PVという膨大な視聴者。その「誰かの挑戦を応援したい」という祈りにも似た想いの集積が、この極限の地で誠とシロの同調率を臨界点まで押し上げたのだ。その想いの重さが、シロの知性を一瞬だけ言語へと変換させた奇跡。
「39号機も、あおいも、俊樹も……みんなお前の『白銀』を信じている。自分を疑うな。……さあ、行こう。最速の、その先へ」
シロは一度だけ短く「ワン!」と吠えると、いつもの愛くるしい姿に戻り、パタパタと尻尾を振った。だが、誠の胸には、どんなレジェンドの格言よりも重い「確信」が宿っていた。
午後8時45分。大村湾にナイター照明が灯り、ついに「最速機兵決定戦」のファンファーレが鳴り響いた。
【優勝戦 出場表】
速水 誠(山口):蒼白の閃光。
和久田 新一(静岡):重力の覇者。
瓜生 俊樹(山口):無のマブイ。
守屋 あおい(山口):鉄風の防波堤。
永島 あき(静岡):和久田の弟子。亡き美雨の走りを継ぐ者。
西野 貴志(福岡):4カドの王。
「俊樹……。あんたが見ている景色、私にも見せなさい!」
5コースから牙を剥くのは永島あき。彼女の30,000のマブイが特殊ウィングに集束し、空気を切り裂く「真空の翼」を形成する。
大時計がゼロを刻む。全艇、全速スリット。
1マーク、和久田が圧倒的な重圧マブイで水面を固めにかかる。誠は「水銀のドリル」を高速回転させ、コンクリートと化した海面を火花と共に削り取りながら内を穿とうとした。
そこへ、大外から永島あきが咆哮と共に飛び込んだ。
「全速……まくり差し!!」
和久田が固め、誠が削り、俊樹がノイズを透過させたことで生まれた、一瞬の「時空の空白」。永島の機体は、時速210kmを維持したまま、美雨の遺志を継ぐ「究極旋回」で誠と和久田の間に割って入った。
「入った!! 永島あき、山口の壁を突き破ったか!?」
実況が絶叫するが、誠の視界は驚くほどクリアだった。
「あおい、俊樹! 永島の風に乗れ! あれは攻撃じゃない、俺たちのための『滑走路』だ!」
誠は永島が巻き起こした激しい旋風を、あえて「スリップストリーム(後流利用)」として利用。外側からあおいが「鉄風」で永島の逃げ道を塞ぎ、内側から俊樹が「無」の領域でエネルギーを誠へと転換する。
山口支部、三人のマブイが一本の螺旋状に絡み合う。それは永島の加速を優しく、かつ強固に包み込む「共鳴」となった。
「何をしている……!? 僕の重力すら、奴らの回転に飲み込まれていく!」
和久田が初めて、戦慄の表情を見せた。
大村のバックストレッチ。
4つの機体が、物理の限界を超えて横一線に並ぶ。
空気抵抗を極限まで排除した「山口・合体陣形」の内部で、誠の39号機はついに未知の領域へ踏み込んだ。
デジタルメーターが狂ったように明滅する。
218……219……220……!
「時速220kmを突破! 翼を失った和久田、翼を求めた永島、そして……翼そのものになった速水誠!」
誠の瞳は、純粋な白銀色に輝いていた。
その視線の先には、ゴール板を通り越し、まだ見ぬ「世界」の水平線が見えていた。
和久田が守りたかった「地」も、永島が憧れた「空」も、誠にとっては一つの「道」に過ぎなかった。
「シロ、行こう。俺たちの……本当の最高速を!」
誠がマブイ石を全解放した瞬間。
大村の夜空に、巨大な蒼白のクジラが跳ねるような閃光が走り、4艇の影は一気に光の彼方へと消えた。




