世界の掟
二〇二九年、三月十九日。
連日の超高速バトルと最高速更新の熱狂で過熱するボートレース丸亀のピット裏が、一人の男の登場によって、一瞬にして氷点下へと凍りついた。
黒塗りの送迎車から静かに降り立ったのは、SG代替出走枠で緊急参戦が決まった静岡支部の絶対的エース――和久田新一さん。東海の重鎮であり、黒田師匠と並んでSS級の座に最も近いと評される男だ。四万三千の【重属性】のマブイが、そこに存在するだけで周囲の空間の重力を変形させるような逃げ場のない重量感を伴い、若手レーサーたちの放つマブイの霧が、磁界の中の砂鉄のように不気味に歪んでいく。
「潰す? 違う。……お前たちに教えに来ただけだ。本当の最速という航路には、浮き草のような軽さは一切必要ないということをな」
予選三日目の第十二レース。俺――速水誠は、完璧な弾丸スタートから水面スレスレの超高速潜航へと移行しようとした、その瞬間だった。
(グリップが、エッジが全く水面に効かない……! 舳先の芯が、一ミリも上がらないぞ!)
三十九号機のボイラーは正常に爆動している。それなのに機体が水面にベタリと吸い付いたまま前へ進まない。丸亀の真冬の重い水面そのものが、俺の蒼白のエッジを拒絶するように超硬質岩盤へと変質していたのだ。
和久田さんは強大な重属性マブイを推進力ではなく、俺の機体直下の海水分子を物理的に凝縮・完全固定させるために使っていた。流動体であるはずの海水が、コンクリートのような硬度を持つ「動かない道」へと強制的に書き換えられる。俺の「真空の楔」は、ハイドロエッジを流動する水の隙間に突き刺すことで成立する技術だ。完全硬質化した水面の上では、その物理理論が根底から無効化された。
手応えが、全くなかった。
和久田さんの「重力定数」が、丸亀の満潮の三角波に膨らむことも跳ね上がることもなく、最短距離の最内を音もなく通過していった。
チェッカーフラッグ。一着、和久田新一。俺は五着のどん底へと沈んだ。
ピットへ帰投すると、ケージの中でスーがぐったりと疲弊してフガフガと低い息を吐き出していた。和久田さんの放った狂暴な重力ノイズを身代わりに吸い取っていたのだ。
「大丈夫か、スー」俺はスーを抱き上げ、その小さな体を静かに撫でた。温かかった。それだけが、今の俺には確かだった。
和久田さんはヘルメットを脱いだまま、振り返ることなく言い放った。
「マブイの出力は、スピードの派手な翼を作るための道具ではない。この重い世界の底で、自分という存在を絶対にブレさせずに繋ぎ止めるための『碇』だ。……水面との僅かな隙間の流体に逃げるのはな、本当の抵抗と真っ正面から勝負できない者の弱さだぞ。明日までに、自分の本当の足元をもう一度見つめ直せ」
「負けた。完璧に、手も足も出なかった」
あおいが俺の震える肩へ、その掌をそっと置いてくれた。
しばらく、黙っていた。スーの温もりを両手に感じながら、あの「動かない道」の感触を反芻していた。力ずくで割るんじゃない。硬質化した水面の中に、流れの残骸を探す。岡山の精密な「静」のペラのロジックなら、あの動かない道の中にある微細な隙間を見つけられるかもしれない。
「……あおい。俺、プロペラの本当の叩き方を、一から教えてほしいんだ」
ヘルメットを脱いだ俺の瞳の奥に、静かな、しかし最も狂暴な逆襲の火が灯った。
あおいはその俺の目を真っ直ぐに見据え、ニヤリと不敵に口角を上げた。
「あったり前でしょ、バカ誠。そのために伝統の岡山のエース看板を全部放り出してここに来たんだからね。責任、たっぷり取ってもらうわよ」




