第39話:吉備の天女の「覚悟」、そして最速への秒読み
香川県丸亀市にある丸亀競艇場。瀬戸内海に面したこの水面は、からくり競艇界において「夜の高速闘技場」と呼ばれている。
最大の特徴は、海水を利用した全速旋回が可能な広大なコース設計にある。干潮時には瀬戸内でも屈指の平水面となり、マブイの出力を限界までプロペラに叩き込む「超抜モーター」の独壇場となる。しかし、満潮時になると状況は一変する。海から流れ込む潮が、第1ターンマーク付近で複雑な「うねり」を形成し、全速で攻める機体の腹を容赦なく跳ね上げるのだ。
また、丸亀のナイター照明は水面に鋭く反射し、レーサーの距離感を狂わせる。特に強力なマブイを搭載した機体は、水面の反射光から余分なマブイ粒子を不規則に吸収し、出力が不安定になる「光酔い」現象を引き起こすこともある。スピードを追求する者にとって、丸亀は最高の舞台であり、同時に最も残酷な陥穽なのである。
2028年9月5日。大宮機艇教習所・正門前。
上田通彦校長から「艇王」としての覚悟と、勝利の先にある尊厳を継承した速水誠と瓜生俊樹。秋の気配が混じり始めた涼やかな風が、二人の頬を撫でていく。彼らの視線はすでに、9月中旬に丸亀で開催される超高速バトル、SG「最速機兵記念大会」へと向いていた。
しかし、その準備を根底から揺るがす事態が、デジタルの海から飛び込んできた。
「誠師匠! 大変なことになってるんだけど! これ、カササギ(競艇掲示板)で今一番バズってる噂!」
教習所の整備工場に、野田あかりがタブレットを掲げて飛び込んできた。表示されていたのは、からくり競艇界の勢力図を塗り替える衝撃のリーク情報であった。
> 【速報】岡山支部の看板、守屋あおい(19)が「支部変更届」を提出か!? 移籍先はまさかの山口!?
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「……え、あおいが……山口に?」
誠の手からスパナが落ち、コンクリートの床に乾いた金属音が響いた。守屋あおい。岡山支部の「守屋グループ」の令嬢であり、次代の女王候補。その彼女が、伝統ある岡山を離れ、新興勢力の山口に移籍する。それは単なる拠点の移動ではなく、家族や師弟関係を一度すべて清算することを意味していた。
同じ頃、岡山児島の守屋グループ整備室では、凍りつくような沈黙が流れていた。
「……あおい、本気なんだな? 岡山を捨てるってことは、俺たちとも、そして児島のファンとも敵同士になるんだぞ。分かっているのか」
兄の守屋司が低い声で問いかける。その眼光は鋭いが、妹を案じる苦悩が滲んでいた。
「捨てるんじゃないわ、お兄ちゃん。……私は、あいつの隣にいたいだけ。一番近くで、あのバカを叩き直したいのよ」
あおいの瞳に迷いはなかった。彼女は愛用のプロペラを抱きしめ、真っ直ぐに兄を見つめた。
「今の誠は、1,000のマブイでSGを勝っちゃった。でも、その勝利の裏で、あいつのマブイは削り取られている。このままじゃ、あいつは自分の魂を使い果たして、いつか上田校長みたいにボロボロになって壊れてしまう。……だから、私が行くの。山口に行って、あいつの無茶を止める防波堤になる。それが、私にしかできない整備よ」
姉の果穂と住友香織は顔を見合わせ、深いため息をついた。
「あーあ。これはもう、恋のオーバーロードね。理屈じゃないわ」
「いいわよ、あおい。その代わり、誠くんが他の子に鼻の下を伸ばしてたら、守屋グループ総出で下関に殴り込むからね」
香織の軽口に、あおいは少しだけ頬を染めながら、深く頭を下げた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん。……今まで、ありがとうございました。岡山で学んだ『精密な風』、山口の空で咲かせてみせるわ」
噂がネット上を駆け巡り、全国のファンが騒然とする中、下関のピットでは誠と俊樹が「最速機兵記念大会」への準備を極限まで加速させていた。
今回のSGは、マブイの出力制限を解除した特殊なレギュレーション。純粋なスピード特化型のレースだ。全艇が通常時を遥かに上回る時速150キロ以上の領域で激突する、文字通りの命懸けの祭典である。
「俊樹、あおいが来るかもしれないんだ。……情けない姿は見せられない。それに、あいつが俺のために岡山を離れるなんて……俺、もっと強くならなきゃいけないんだ」
「……ああ。パスタもやる気だ。誠、今回の大会、俺たちの『白銀』と『無』が、スピードの果てに何を見るのか。試してみようじゃないか」
誠は上田校長から譲り受けた特殊パーツ――伝説の機体に使われていた「真空還流弁」を39号機に組み込んだ。これは、機体から漏れ出す余分なマブイ粒子を再吸収し、純度を高めて再噴射する「魂の循環システム」である。
「シロ、手伝ってくれ」
誠が集中を高めると、シロの浄化能力がパーツと共鳴。39号機から放たれるマブイは、これまでの鋭い白銀色を超え、冷たく、しかし絶対的な熱量を持った「蒼白の閃光」へと変質した。
9月10日。大村競艇場のピットに、山口支部のジャージを着た誠と俊樹たちが姿を現した。そこに待っていたのは、数多のカメラのフラッシュ、そして――。
山口支部の新しいジャージに身を包み、不敵に笑う守屋あおいの姿であった。
「あおい! 本当に……」
「今日から同門よ。あんたがヘマしたら、私がピットで直接説教してあげるわ。……ほら、行くわよ。今回の丸亀は、スピード狂の化け物たちが世界中から集まってるんだから」
あおいが誠の背中をバチンと叩く。その掌から伝わる温もりが、誠のマブイをさらに活性化させた。




