アズール・フォーメーション
二〇二九年、三月中旬。香川県・ボートレース丸亀。
真冬の残響を孕んだ瀬戸内海の冷たい風がピタリと凪ぎ、カクテル光線に照らされたナイター水面が夜空を写し込んでいた。SG「最速機兵王座決定戦」を走る機艇たちにとっては、冷酷な平水面だ。ここはかつて、俺が千夏に負けた丸亀の水面でもある。あの時の焦りと悔しさが、今日はただの燃料になっていた。
ピット全体を支配する異様な緊張感の正体は、天候ではなかった。数万の観客のどよめきが、山口支部のピットに立つ一人の紅一点へと向いていたのだ。
「……あおい。その勝負服……っ」
俺は手元の感覚を失った。山口支部の青いジャージの代わりに、彼女の华奢な肉体を包んでいたのは、「維新の赤」を大胆に配した山口特製の真っ赤な勝負服だった。長年彼女の背中にあった岡山の深い青は、もうどこにもなかった。
「何よ、幽霊でも見たような顔して。分かってたくせに」
「分かってたけど、実際に目の前で見るとまだ信じられないんだよ。岡山支部の絶対的なエースが……本当に来たんだって」
「簡単だったわけないでしょ。お兄ちゃんには泣きつかれるし、果穂お姉ちゃんには一晩中説教されたんだからね」
あおいは静かに一歩、俺の元へと歩み寄ってきた。その大きな瞳の奥に宿る強い光が、カクテル光線を反射して妖しくきらめく。
「これからはもう、水上でもピットでも絶対に逃がさないわよ。私のこれからの人生のすべて、ちゃんと責任取ってもらうんだからね」
「積もる話は後だ」
三十九号機のカウルの影から、瓜生俊樹が音もなく現れた。眼鏡の奥の瞳が、これまでにない獰猛な知性で冴え渡っている。
「丸亀の水神が、僕たちを呼んでいる」
ピット裏のケージの中で、スーが短い尾を激しく振りながら「フガフガ!」とあおいを大歓迎するように声をあげた。その温かい息吹が、俺たち三人の精神を、完璧な無の凪へと純化させていく。その少し後ろで、スーを一度預かっていた菜奈が、俺たちを見ながら「もう、最高やんか」と呟いて笑っていた。
予選初日、第十二レース。番組表が電算掲示板に発表された瞬間、スタンドから地鳴りのような大歓声が沸き起こった。山口支部の若き三人が、丸亀の最内枠を完全に独占したのだ。
「――大時計、始動ッ!!」
黒大時計の白針がゼロを刻んだ瞬間、丸亀の静寂の水面で起きたのは、空間の完全なる爆発だった。山口支部が誇る超高度なライン戦――「アズール・フォーメーション」の展開だ。
まず一コースの瓜生俊樹がマブイゼロの絶対特性を活かし、ナイター照明が引き起こす「光酔いノイズ」を最内から完全に透過して消去する。その波紋すら立たない静寂の航跡の真裏へと、二コースのあおいが突入。愛機「吉備津彦」の氷属性マブイを扇状に展開し、満潮の三角波を強制ダウンフォースで水底へと圧殺した。
光酔いのノイズが消え、水面のうねりが完全に平伏した、完璧なる超高速の硝子滑走路。その最短距離の線の真ん中へ、三コースの俺と三十九号機が真っ正面から突っ込んだ。上田校長から授かった「真空還流弁」が、エッジから漏れ出た極小の粒子をシリンダーへ強制再噴射し、一千の金属性マブイが超高電圧の「蒼白の閃光」となって夜空を貫く。
「ここよ、誠! 私たちの精密な風を、そのエッジへ繋いでぇぇーっ!!」
第一ターンマーク。俺は空へなんて絶対に逃げない。結晶化した蒼白のエッジを極小の一点に絞り、丸亀のマークを鋼のレーザーメスで一刀両断に切り裂いていく。あおいのダウンフォースが俺のステップを完璧にホールドし、瓜生の無の透過が俺の死角をトレースする。三位一体、持たざる凡人たちが血肉を分けた、山口の絆の儀式だった。
「速水、瓜生、守屋、三艇同時通過ぁーっ! バック最高時速、今大会暫定首位!!」
ピットへ帰投した三人を、海野田さんや山口の仲間たちが涙を流しながら抱きしめてきた。
「あおい。最高の風だった。お前が水面を平伏させてくれなきゃ、俺はあの絶対速度のままじゃ、絶対に曲がり切れなかったよ」
「あったり前でしょ。あんたがもっと速くなるって言うなら、私はその一歩先まで道を繋げてあげるわよ」
あおいは顔を真っ赤にして照れ隠しに、俺の胸元をポカポカと拳で叩いた。瓜生が眼鏡の奥にわずかな慈しみを浮かべて、俺たちを静かに見守っている。足元ではスーが「ワン!」と、丸亀の冷たい夜空へ声を響かせた。
今日はまだ予選初日だ。ここからだ。




