蒼白の還流
二〇二九年、三月五日。
琵琶湖のほとりで上田通彦校長から艇王としての真の覚悟を継承した俺――速水誠と瓜生俊樹の視線は、三月中旬に香川・ボートレース丸亀で開催されるSG「最速機兵王座決定戦」へと向けられていた。
「誠センパイ! データ掲示板でとんでもないリーク情報がバズってるんだけど!」
後輩の野田あかりが、整備室へ電算端末を掲げて飛び込んできた。液晶画面には、衝撃の文面が映し出されていた。
『守屋あおい(19)が支部変更届を提出か。移籍先はまさかの山口支部』
スパナが床に落ちた。カン、と冷たく乾いた音が整備室に響き渡った。
同刻、岡山の「守屋グループ」の整備室には、静寂が流れていた。
「あおい。岡山を捨てるってことは、明日から俺たちとも完璧な敵同士になるんだぞ。本当に分かっているのか」
兄の守屋司が、低い地声で冷徹に問いかける。
「捨てるんじゃないわよ。……あいつがすべてを賭けて頂点に登ったなら、そのまま内側からボロボロに壊れていく。上田校長みたいに、指が動かなくなるまで。だから私が行くの。あいつの無茶を最内から止める、一番冷たい防波堤になる。それが、私にしかできないことよ」
「あーあ。流体力学の理屈じゃないわね」
姉の果穂が諦めたようにため息をつくと、住友香織がニヤニヤしながら小突いた。
「その代わり、誠くんが他の女の子に鼻の下を伸ばしてたら、守屋グループ総力で殴り込みにいくからね」
あおいは少し頬を赤く染めながら、家族へと深く頭を下げた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん。……岡山で学んだロジック、山口の荒ぶる空で完璧に咲かせてみせるわ」
数日後、下関の専用ピットで俺は、上田校長が去り際に手渡してくれた特殊パーツ――「真空還流弁」を三十九号機のクランクケースへと組み込んでいた。旋回中にカウルハイドロから漏れ出す余分な金属性マブイ粒子を強制再吸収し、分子純度を何倍にも高めてシリンダーへ再噴射する、老兵の魂が宿る超高密度循環システムだ。
足元にいるスーの生身の呼吸音との霊子リンクが完璧に確立された、その瞬間だった。三十九号機のカウルステップから放たれる金属性マブイの波動の色彩が、かつての白銀の輝きを遥かに超越した、冷たく絶対的な超高電圧の熱量を宿した――
「蒼白の閃光」へと完全覚醒を遂げたのだ。
「あおいがすべてを捨てて来てくれるなら、情けない走りは一回だって見せられない。俺はもっと硬い刃にならなきゃいけないんだ」
「分かっているさ、誠。お前の白銀の刃と僕の無響の透過が、丸亀の絶対速度の果てに何を見るのか……最高の方程式で試してみようじゃないか」
隣で端末を見つめる瓜生の瞳にも、新時代の王者の獰猛な光が宿っていた。
三月十日。SG前検日を迎えたボートレース丸亀のピット裏。
冷たい潮風の中、メディアのカメラのフラッシュが激しく焚きつけられていた。その光の渦の中心で、俺と瓜生と全く同じ、山口支部の青いジャージを不敵に正し、操縦席でニヤリと生意気に笑う守屋あおいの姿が、確かにそこにあった。
「今日から同門の先輩後輩よ、バカ誠。ヘマな旋回をしたら直接耳を引っ張って説教してあげるわ。……さっさと愛機を降ろすわよ。絶対速度に命を売ったスピード狂の化け物どもが、手ぐすね引いて待ってるんだから」
あおいが俺の背中を、防護服の上からバチンと強烈に叩いた。二人の持つ電算端末のインジケーターが、俺の蒼白とあおいの氷色のツートンで穏やかに、しかし激しく明滅する。その掌から伝わる命の確かな温もりが、俺の蒼白の還流の中で、さらに激しく熱く活性化されていくのを、俺は皮膚の芯で確かに感じていた。




