残りの二十敗
二〇二九年、二月下旬。
下関での歴史的な大金星から数日。俺――速水誠と瓜生俊樹は、すべての原点である琵琶湖のほとり、大宮機艇教習所の古びた鉄筋の門を静かに潜っていた。海峡の狂乱から離れた教習所のプール水面には、あの頃の掃き溜めだった頃と変わらない、どこか寂れた冬の静寂だけが広がっていた。
校長室の重い扉を開けると、上田通彦校長が、静かにデスクの奥に座っていた。SG生涯成績一一〇〇戦一〇八〇勝。デビューから引退まで一度も完走を外さなかった、前人未到の記録を持つ男だ。だが、俺の目が釘付けになったのは、その顔面と両手の指先に刻まれた、最新の再生医療すらも拒絶するほどの無数の縫合痕だった。
「校長……その傷は」
「一〇八〇勝の栄光の代償にしては、見栄えが悪いな」
上田校長は自嘲気味な眼光を宿した笑みを浮かべた。
「お前たちが大内を引きずり降ろしたのと同じや。私も現役時代、十一万超えの【神轟属性】を誇っていた。だが、賞金王決定戦という死線では、その強大すぎる神の出力そのものが、乗り手の肉体を内側から焼き尽くす最悪の猛毒へと変貌するんや」
上田校長が静かに語ったのは、現役最後に制覇した伝説の賞金王決定戦の記憶だった。勝利への醜い執着から十一万マブイの全エネルギーをボイラーへ無理やりねじ込んだ瞬間、クランク軸でマブイ粒子が臨界爆発を起こした。血の海の中で意識を失いかけた上田校長は、砕けた指先で救護隊員の胸ぐらを掴み、怒号を放ったのだ。
――まだ、走れますか。俺のプロペラは……まだ、生きてますか。
俺はその一言を聞いた瞬間、三十九号機が第1話に初めて目覚めた夜の「待たせたな」という自分の声を思い出した。上田校長の神轟属性が宿ったあの機体が、金属性の俺と同期した理由が、今になってやっと分かった気がした。
「私はあの夜、勝負師として一度完全に死んだ。一〇八〇の栄光の裏に、残りの二十敗がある。勝利への醜い執着が、自身の身体と機体を内側から破壊した結果の数字や。速水、瓜生。お前たちが大内に勝てたのは、マブイの数値の強さなんかじゃない。機体というからくりの声を聴き、対等で在り続けたからや」
足元では、上田校長の老犬・大福がどっしりと丸まっていた。現役時代の凄まじいマブイの残滓を何年も浴び続けてきたその老犬は、ただ佇むだけで周囲の霊子ノイズを鎮圧するような重厚な気配を纏っている。俺の腕の中のスーが恐る恐る鼻先を寄せ、フガフガと挨拶を交わした。上田校長がその様子を見て、初めて、静かに笑った。
「この大福が教えてくれたんや。笑い方を、な」
「速水、瓜生。お前たちが大内に見せた真空の楔と無響の透過は、狂気なんかじゃない。新時代の光や。……俺のような血塗られた傷跡をその身に残すな。スーや大福のように、仲間たちに寄り添い、支えられながら、最後の一周まで笑ってゴール板を駆け抜けろ。……それこそが、俺が現役の最後まで気づくことのできなかった、最後の最強のロジックや」
俺は両手の指を強く握り締めた。
「忘れません。最後の一周まで、笑ってあいつと最短距離の線の真ん中を滑り抜けます」
「僕も」
瓜生が静かに言った。眼鏡の奥の目が、珍しく真っ直ぐに上田校長を見ていた。
「父がマブイゼロという宿命を残してくれた。この指で、誠と一緒に、世界のSSのその先にある新しい歴史を掴み取るよ」
上田校長は深く頷き、校長室の大きな窓を不敵に開け放った。真冬の冷たい空気と共に、夕日に照らされて黄金色に輝く広大な練習水面が目の前に広がっていく。
二人は世界の頂点へ、そのさらに先へと続く果てしない航路を見据えながら深く頭を下げ、校長室を後にした。
背後で老犬・大福が、彼らの新しい門出を祝うように、力強く一吠えの声を響かせた。




